世々にわたる神の計画

 

第 11 章

 

 三つの道――広い道、狭い道、大路 

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三つの道――広い道、狭い道、大路

――破滅に至る広い道

――命に至る狭い道

――命とは何か?

――神性

――神聖と人性との関係

――狭い道の終点で得られる報酬

――福音時代に限られ ている高い召し

――狭い道の困難と危険

――聖なる大路 

 

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Few find
the "narrow way" to life today.

滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいっていく者が多い、命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。(マタイ71314

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The "highway of holiness" will be available for all.

そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者がそこを通ることはない。しかし、その道は彼らのためにある。旅人は愚かであっても、そこで過ちを犯すことはない。そこにはししはおらず、飢えた獣もその道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない。ただあがなわれた者のみ、そこを歩む。(イザヤ3589

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The downward path is becoming
more glazed
and slippery
with sin.
  広い道狭い道大路はこのように聖書の中で示されている。

滅びにいたる広い道

この道が、このように名づけられているのは、堕落した人類にとって、最も歩きやすい道だからである。6000年前、滅亡を宣告された罪人、アダム(とアダムによって代表される人類)は、この道を歩き始め、930年の後、その終点――破滅――に至ったのである。

 時は過ぎ、下降する道はますます滑りやすくなり、人類はますますその速度を増して滅亡へ向かってきた。その道は、日毎に抵抗力を失い、今では人間の寿命は約35年になってしまった。今、人間は、最初の人間より900年も速く、その道の終点――滅亡――に達するのである。

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For 6,000 years,
sin and death
have reigned relentlessly.

     6000年の間、自身はその広い下降する道を確実に歩み続けてきた。比較的少数の者のみが、その進路を変え、引き返そうと努力してきた。そして、そうしようとした一部の人々の努力は賞賛に価し、全く効果がなかったというわけではなかったが、事実、その歩みのすべてをさかのぼり、最初の完全性に到達することは不可能であった。

   6000年の間、罪と死は容赦なく人類を支配し、滅亡へのこの広い道に人々を駆り立ててきた。そこから逃れる道は、福音時代になるまで明らかに示されなかったのである。以前の時代には、希望の光は模型や影においておぼろげに見られ、少数の人々はこれを大いに歓迎し、行動したとは言っても、命と不滅とは私達の主であり、救い主であるイエス・キリストが現われるまで、又使徒達によって救いと罪の許しとその結果としての滅亡からの復活の良きおとずれが宣告されるまでは、明るみに出されなかった。(テモテ110

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Jesus called
the new way
the "narrow way
to life."

     イエスと使徒の教えは、すべての人類のための救い主の功績と犠牲に基づく命、すなわち命への回復または復古を明らかにしたのである。そして彼らはこれを旧約聖書の中の多くの模型の意味であるとして示している。彼らはまた、福音教会の高い召しの賞与である不滅を明らかにしている。

滅びに至る広い道から逃れる道は、福音によって明らかにされたとは言っても、人類の大多数は罪に深まり、悪によって盲目にされているので、その良きおとずれを心に留めない。

   今、命への約束、すなわち人間存在の回復を、キリストを通して受け入れる人々には、開かれた新しい道、すなわちそれによって献身した信者には人性を越えた高い性質――霊性へと変えられることが示されている。この新しい私達のために開いてくださった――忠実なる祭司の国――を主は次のように呼んだのである。(ヘブル1020

Because of
its narrowness,
many prefer
to avoid it.

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命に至る狭い道

多くの人々が滅びにいたる広い道に留まることを好むのは、この道が非常に狭いからだと私達の主は教えている。命にいたる門は狭く、その道は細い、そしてそれを見いだす者が少ない。(マタイ714

   この道の危険と困難を考慮する前に、その道の終点である命に注目してみよう。すでに見てきたように、命は、あるいは人間より高い、あるいは人間より低い様々な階級で所有されるものである。

   命という言葉は広い包括的な言葉だが、ここで主は、神性――不滅――にふさわしい命、私達が目標として走るべき最も高いかたちの命のことを言っているのである。命とは何か?私達は自分自身の中に命を認めるのみならず、下等動物の中にも植物の中にさえ、その命が働いているのを見る。

What is life?      又、私達は、もっと高いかたちの命、天使や神の存在のことを教えられた。こんなに包括的なことばをどのように定義したら良いのだろうか?
Jehovah is
the great fountain of all life.
     私達は、すべてのものの中にある命の源の秘密を発見することは出来ないかも知れないが、神、エホバの存在は、すべての命の偉大な泉であり、そこからこれらすべての命は供給されると推測してもよいと信ずる。

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The divine nature is life independent, unlimited, exhaustless.

    すべての生き物は、その命を神から得、神に依存している。すべての命は神の中にであれ、被造物の中にであれ同じである。それは力を与える根源であって、物体ではない。それは本来神に属するものであるが、神が定めた原因から生じて、被造物の中に存在する。

   だから神は命の原因であり、命の創造者、または泉である。ゆえに被造物は、いかなる意味においても創造者の本質または性質の一部、または子ではなく命を吹き込まれた神の御手の業なのである。

神性にのみ、独立した限りない無尽蔵の、絶えることのない環境によって創られることも、左右されることもない命があるという事実を知ることによって、エホバは、被造物の維持のために定めた物理的法則や供給物を超越したものでなければならないことを私達は理解する。神にのみ属し、不滅(immortality)という言葉で説明されるものは、この性質なのである。

  前章で示したように、不滅とは不死性、従って病気や痛みのないことを意味する。事実、不滅は神聖と同義語に使うことが出来る。ちょうど地球が太陽から光や命の源を受けるように、神の不滅の泉から、すべての命と祝福とすべての良い完全な賜物に始まるのである。

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The sun is
the fountain of light
to the earth.
     太陽は地球への偉大なる光りの源であり、すべての物を照らし、照らす部室の性質に従って、様々な色や光の明暗を生み出す。同じ太陽の光がダイヤモンド、レンガ、異なった種類のガラスを照らすと、著しく異なった効果を生ずる。光は同じであっても、それが照らす物質が光を受け取ったり、伝達したりする能力の違いによって差をつける。

   命もこれと同様である。すべての命は、一つの無尽蔵の泉から流れ出る。カキ(貝)は命を持つが、ちょうどレンガが太陽の光をあまり反射することが出来ないように、カキは命の力を大いに使うことができないように作られている。

   獣や魚や鳥におけるもっと高い命の各々も同様である。陽光の下にある様々な種類のガラスと同様に、これらの異なった被造物は、命がその有機体を活かす時、各々が異なった有機的能力を発揮するのである。

Man does not possess
inherent life.

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     みがかれたダイヤモンドは、非常に光をよく採り入れ、あたかもそれ自体の中に光を持つ小さな太陽であるかのように見える。神の創造の傑作品であり、ただ少し天使より低く造られた人間も同様である。

   人間は神が与えた手段を使用することによって、命を受け取りそれを保持し、決して衰えることがない程に高尚なものとして造られたのである。アダムは、その堕落以前には、いかなる地上の被造物よりも崇高であった。それは人間に与えられた命の根源が異なるからではなく、より崇高な有機体を与えられたからである。

The beginning
of human life –

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     しかし、私達が記憶しておきたいことは、ダイヤモンドも太陽に照らさなければ光を反射することが出来ないように、人間も命の供給が続けられなければ、命を保持しそれを楽しむことは出来ないということである。

   人間は固有の命を持たない。ダイヤモンドが光の源ではないように、人間も命の源ではない。私達が私達自身の中に無尽蔵の命を持たない。又は不死性ではない。強力な証拠の一つは、罪がこの世に入って以来、すべての人類に死が及んだということである。

   神は、エデンの中で人間は命を支える木に近づく手段を持ち、アダムが置かれたパラダイスには、見て美しく食べるに良いあらゆる種類の木が豊富にあるように準備された。(創世記291617)食べるに良い命の木の中には、禁じられた木があった。

   一時的に知恵の木から取って食べることを禁じられていた一方、アダムは命を完全に支える他の木から自由に取って食べることを許されていた。そして、アダムがそれらの木から離されたのは、不従順を犯した後であった。それによって死の罰が実施されたのである。(創世記322

As the diamond loses its beauty when light is withdrawn,
so man loses life without God.
     こうして、ちょうどダイヤモンドの美は、太陽の絶えざる供給に依存しているのと同じように、人間の栄光と美は、命を支えるための絶えざる供給物に依存していることがわかる。罪が人間の命への権利を奪った時、その供給は止まり、たちどころにその宝石は輝きと美を失った。

   そして遂には墓において最後の痕跡を失う。その美は、しみが食うよう消して滅ぼされる。(詩篇3911)ダイヤモンドが光を奪われることによって、その美と光を失うように、人間も神がその供給を絶つ時、命を失うのである。

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"There is
no work...
nor knowledge...
in the grave..."

人が死ねばどこにいるのか?(ヨブ1414彼の子らは尊くなっても、彼はそれを知らない、卑しくなっても、それを悟らない。(ヨブ1421

あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである。(伝道の書910

Man is to have
his beauty restored.

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     しかし、あがないが与えられ、死の罪が救い主によって果たされたので、その翼にいやす力を備えている義の太陽がのぼる時、宝石はその美を回復し、再び創造者のかたちを完全に反射するのである。(マラキ42

   墓の中にいる者たちが出てくるのは、罪の供え物、すなわちキリストの犠牲ゆえなのである。すべての物が回復される時が来る。その時には、最初にすべてのものに回復の機会が与えられ、最終的には救い主に従うすべての人は人間の完全性へと到達するであろう。

 

 

Divine nature
was originally
the possession
of God.

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"Who only
hath immortality..."
I Timothy 6:16

     しかしながら、これがイエスが語っている、狭き道の終点で得られる報酬ではない。他の聖句から、狭き道を歩む人々に約束された報酬は神性――すなわち固有の命、神性だけが所有し得る最高の命――不死性であることが分かる。なんという希望であろう!そのような高度な栄光を望み得るだろうか?もちろん、確実にして明白に語られた招きなくしては、だれもこのような望みを抱くことは出来ない。

最初は神だけが不死性を所有していた

テモテ61416から不死性または神性は、本来神だけが所有していたものであることが分かる。その時(千年時代)には、彼(イエス)は、祝福に満ちたただひとりの力ある方――王の王、主の主、ただひとり不死を保ち、光の中に住み、だれも近づくことが出来ず、だれも見たことがなく、また見ることも出来ない方を出現させて下さるのであろう。

   その他のすべての存在者、天使、人間、獣、鳥、魚などは各々の計りに従って命を持つ器にすぎず、創造者がみこころのままに各々に備えられた品性、容量、性質において異なっているのである。

     更に私達は、最初にただひとり不死性を持っていたエホバは、御子、主イエスを同じ性質にまで高められたので、御子は今、父の本質の真の姿である(ヘブル13ことを知る。

Immortality is
now offered to
the Bride of Christ.

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父がご自分のうちに生命をお持ちになっている――自分のうちに生命を持つとは、不死性を意味し、他の源から造られたのではなく、環境に依存せず、独立した固有の生命を持つことを意味する。――と同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。(ヨハネ526

   だから、主イエスの復活以後は、二つの依存者が不死性を持つのである。しかも驚くべき恵みは、福音時代の間に子羊の花嫁にも同じ不死性を与えるのである!しかし、いわゆる教会に属するすべての者、大勢の群衆のすべてがこの偉大なる賞与を受けるのではなく、それを獲得するために走る勝利者の小さき群だけがそれを受けるのである。

   彼らは、主の御跡に従い、主と同じように死にいたるまで犠牲の狭き道を歩むからである。これらの人々は復活の際に、死者の中から生まれる時、神の性質と姿を与えられるであろう。この不死性は、すなわち独立自存の神性こそ狭き門を歩む者が到達すべき命である。

The Church class
is to be raised
with spiritual bodies.
     このクラスに属する人々は、人間として墓からよみがえるのではない。なぜなら、パウロが確証しているように、肉の体でまかれても霊の体でよみがえるからである。これらすべての者は変えられるのである。

   かつて地の、すなわち人間のかたちをとっていたのと同様に、天のかたちをとるであろう。しかし、私達がどうなるのか――霊の体がどんなものであるのか――まだ明らかではない。しかし、彼が現われる時、私達は自分たちが彼に似るものとなることを知っている。ヨハネ32、コロサイ127コリント417、ヨハネ1722ペテロ510テサロニケ214

The Gospel Age
is designated exclusively
for this call.
     この性質の変化への高い召しは、福音時代に限定されているばかりではなく、これは福音時代に提供される唯一の招きである。だから、この章の始めに引用した主のことばの滅びに至る広い道を歩む者とは、現在提供されている唯一の賞与への道を歩まないすべての人々を言うのである。

   多くの人々は、未だに広い道にとどまり、世界に宣告された有罪から逃れていない。現在開かれているこの唯一の命への道は、それが非常に困難な道であるために、そこを歩もうとする者は、ごくわずかにすぎない。人類の大多数は、弱さゆえに自己満足の安易な広い道を歩むことを選ぶのである。

The path
from death to life
is a
"Narrow Way" today.

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     狭い道は、命と不滅に至るけれども、これを死の道と呼ぶことも出来る。その賞与は、人間性を死に至るまで犠牲にすることによって得られるからである。それは命に至る死の道である。アダムの罪と死の刑罰から解放されたと見なされているので、献身者は、世界一般の人々と共に与えられた人間としての当然の権利を自主的に殺す、または犠牲にするのである。

   人なるキリスト・イエスが世界のためにその命を捨てた。または犠牲にしようとしたように、これらの人々もイエスと共に犠牲を払い、イエスと共同の相続者となるのである。それは、イエスの犠牲が不十分であって、他の犠牲を必要としたからではなく、これらの人々は、イエスの花嫁となり共同の相続者となるために彼と共に苦しみ、神に仕えることを許されているからである。だから、世界は死の宣告の下にあり、アダムと共に死につつある一方、この

   小さき群は、すでに説明した信仰と犠牲とを通してキリストと共に死んでいると呼ばれるのである。彼らは、神性にあずかり、彼と共に栄光に輝く者となるために、人間としてイエスと共に犠牲を払い、死ぬ。

   なぜなら、もし私達がキリストと共に死ぬなら、彼と共に生きると信じるからである。彼と共に苦しむなら、彼と栄光を共にするであろう。(ロマ817テモテ21112

With the end
of the Gospel Age,
the Narrow Way
will close.
     千年時代の始めには、現在狭い道を歩む人々は、彼らがそれをめざして走った偉大なる賞与、不死性を得るであろう。こうして神性と力とを着ることによって、彼らはその時代の間に世界を回復し、祝福する偉大な事業への準備が出来るのである。福音時代の終りと共に、不死性への狭き道路も終わる。それは試練とテストに耐えた小さき群の選択が完成するからである。

   今は受け入れられる(ギリシャ語のdektos――受け入れられ得る)時である。すなわち、イエスの功績によって来る犠牲が、甘い香りの犠牲として、神に受け入れられる時である。アダムの罰としての死は永遠に継続されるわけではなく、千年時代の間に廃止されるのに対して、犠牲としての死は、福音時代の間にのみ受け入れられ、報酬を与えられるであろう。

"For if ye live
after the flesh,
YE SHALL DIE;
but if ye
through the Spirit
do mortify the deeds of the body, YE SHALL LIVE.

"For as many as are led by the Spirit of God,
they are the sons of God."
Romans 8:13,14

    犠牲とされるべき肉体

福音時代の聖徒が命に至る道を歩み得るのは、新しい被造物としてのみである。そして、私達が私達自身を犠牲としてささげ得るのは人間としてのみである。もし人間として私達がキリストと共に死ぬなら、新しい霊的存在として、私達は彼と共に生きるであろう。(ロマ68)私達の中にある神の心、すなわち、変えられた心は、新しい性質の発芽である。

その新しい命は、容易に息を止められてしまう。パウロはこのように確証する。真理を通して霊を与えられた時、もし私達が肉に従って生きるなら死ぬであろう。(命を失うであろう)しかし、もし私達が霊を通して体の働き(人間としての性質)を殺すなら、(新しい被造物として)生きるであろう。なぜなら、神の子は神の霊に導かれるからである。(ロマ81314)これはすべての献身者にとって最も重要な思想である。

 というのは、もし私達が人間性を犠牲とすることを神に誓い、その犠牲が神に受け入れられたならば、それを取り戻そうとすることは全く無益であるからである。人間性は、もはや神の目には死んだものとして映り、再びその人間性が回復されることは決してないからである。だから、再び肉に従って生きることによって得ることが出来るものは、新しい霊的性質を失うことによって得られる。ほんのわずかな人間の自己満足だけである。

There is
another class;
it is partially overcome
by the world,
the flesh,
or the devil.
     しかしながら、この世の誘惑、肉の欲、または悪魔の策略に幾分か負けているとは言っても、その賞与を望み、霊を与えられている多くの献身者がある。彼らは前に置かれている賞与を見失い、中道を歩こうとする者である。すなわち、この世の友は神の敵である。(ヤコブ44

   ことを忘れ、また、賞与を求めて走る者への教えは世を愛してはいけない――ただひとりの神からの誉れ以外に誉れを求めてはならない。ヨハネ215、ヨハネ544)であることを忘れ、神とこの世と両方の愛顧を保持しようとする者である。

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Purified by
the fire
of affliction.
     現在の世界を愛し、しかも完全に主を忘れ、主との契約を無視することもないこれらの人々は、苦悩の火によって罰と清めを受ける。使徒が語っているように、彼らは