世々にわたる神の計画 

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世々にわたる神の計画

 

第 12 章

 

神の計画を示すチャート

 

―時代の推移

収穫

実際的立場と、みなされる立場

主イエス・キリ ストのたどった道

イエスの従者がたどる道

名目的教会における三つの階級

収穫の時の分離

油そそがれた階級の栄光

大苦難を受ける階級

焼かれる毒麦

祝福される世界

栄光ある結果

 

A - World That Was
"Whereby the world that then was, being overflowed with water, perished."
2 Peter 3:6

B - Present Evil World  
"In whom the god of this world hath blinded the minds of them which believe not, lest the light of the glorious gospel of Christ who is the image of God should shine unto them."
2 Corinthians 4:4

C - Third Dispensation
"In the dispensation of the fullness of times he might gather together in one all things in Christ."
Ephesians 1:10

     この巻の後には、世の救いのための神の計画を表わす時代区分表がついている。この図を見れば、神の計画が発展的に展開されるという特徴をもっているものであることがひと目で解り、また、人間の性質から神の性質にまで完全に自己を高めようとする人々が踏み行うべき道が理解できる。この図は、このように目を通して理解に役立てるために作ったものである。

   まず、三大治世ABCの概略を述べる。第一のAは、人類の創造から大洪水までである。第二の治世Bは、大洪水からキリストの再臨をもって始まるキリストの一千年期の治世の開始までである。第三の治世Cは、キリストの治世の開始から来たるべき時代にわたる時の満ちる治世である。(エペソ11027

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     これらの三大治世は、聖書の中でしばしば述べられている。Aは過ぎ去った世と言われている。Bはイエスによって今の世と、パウロによって悪の世と、ペテロによって現在の世と呼ばれている。Cは、悪の世と対照して義の住む来たるべき世と呼ばれる。現世は悪が支配し、義が苦難を受ける時代であるが、来たるべき時代においては、これが正反対になる。義が支配し、悪は苦しみ、最後にはすべての悪が滅ぼされる。

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"World that Was"
ended with the Flood.

 

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     神の計画は、各治世それぞれに形が異なってこそいるが、それらは別々のものではない。計画完全の暁には、神の英知を表わす偉大な計画は一つのものであり、各治世はその一部にすぎない。三大治世を切り離してそれぞれ別個のものとして考えるようなことがあれば、それぞれの大治世における神の意図を見落してしまう。

   最初の治世(天と地あるいは秩序)は大洪水をもって消滅し、その後に最初の治世とは秩序の異なる、主の言われるところによればサタンが支配するこの悪の世が続く。だから、サタンは大洪水以前においては王ではなかった。聖書は幾つかの箇所でこの時代において神が実行されたことについて述べ、全体としての神の計画について明快に教えている。これらの箇所では、大洪水以前の治世は天使の支配下におかれ、神は天使たちに堕落した人類を救済する試みを行わせようとされたことが書かれている。

   天使たちが神の許しのもとに人類救済を試みたことは疑いない。神が人類を創造された時、天使たちが歌い、喜んで人類に興味を示したことからもこのことがうかがえる。(ヨブ記387)天使たちは、世の支配に失敗したとはいえ、神の意志によって当時の支配者になったものであるということは、その時代に関する聖書記述によって証明されるだけでなく、使徒パウロの言葉によっても推論することができる。

   パウロは、現在の治世を過去の治世及び未来の治世と対比する中で、神は来たるべき世界を御使たちに服従させることはなさらなかった。と述べている。(ヘブル25)神は来たるべき世を天使たちに治めさせようとはされない。来たるべき世は主イエスと彼の共同相続人の支配下におかれる。

   その治世は、現在の悪の世よりも義に満ちた治世であるだけでなく、天使の支配した第一の治世よりも更によい治世なのである。天使たちが人類を義に導いて救済することができなかったことは、天使たちの治世において人類が益々堕落して神の怒りを招き、神がたった8人の人間だけを残して当時生きていたすべての人類を大洪水によって滅ぼしたことによって明らかである。(創世記713

wpe62F.jpg (2520 bytes)      悪の世においては人類は自治が許されている。しかしながら、人類は堕落のためにこの世の王であるサタンに支配されるようになり、大洪水から現在までの長い期間にわたって、サタンの陰謀と策略に逆らって自治を行おうと努力しているが成功していない。

   しかし、このサタンの支配の下に行われる人間の政治は、未曾有の困難の時代が到来して終わりを告げることになる。このようにして、天使たちには人類を救済する力がないこと、そして自己救済を求めて行う人類の努力が無力のものえあることが永久に証明されるのである。

D -Patriarchal Age 
God’s special dealings with Abraham, Isaac,
and Jacob.

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      第二の治世Bは3つの異なった時代から成り、各時代において神の計画は発展的に展開される。

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     Dの時代は、神がアブラハム、イサク、ヤコブのような族長を特別に厚遇した時代であった。

E - Jewish Age
"You only have I known of all the families of the earth." Amos 3:2

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     Eの時代は、ユダヤ期、即ちヤコブの死に続く時代で、ヤコブのすべての子孫が神の民として遇された時代であった。神は彼らに対して特別の恵みを与え、地のもろもろのやからのうちで、私はただ、あなたがただけを知ったと言われた。(アモス32

   彼ら国民はキリスト教会を象徴する聖なる国民であり、神につける民であった。彼らに対してなされた神の約束は、今日の我々に対してなされる更に良い約束の象徴である。彼らがカナンに移った荒野の旅は、われわれが罪の荒野を経て天のカナンに至る旅の象徴である。彼らの捧げた犠牲は、象徴的な意味あいにおいては、彼らを義とするものであった。しかし、本当の意味で彼らを義とした訳ではない。

   なぜなら、雄牛や山羊の血は決して罪を取り去るものではないからである。(ヘブル104)しかし、Fの時代、すなわち福音時代には、人類は全人類の罪を必ずあがなう更に良い犠牲を得る。その犠牲とは、かしらであり、祭司の長であるイエス・キリストを通して、清くして神の意にかなう生ける供え物として自己を神に捧げる人々からなる王たる祭司である。(ヘブル31

   ユダヤ期における祭務や教儀は実体ではなく、影として現われていたものであるが、福音時代にはそれらが実体として現われる。(ヘブル101

F - Gospel Age
"Wherefore, holy brethren, partakers of the heavenly calling, consider the Apostle and High Priest of our profession, Christ Jesus." Hebrews 3:1
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     福音時代Fは、キリストの体となる人々が世から召し出され、信仰によって生命の冠と神性を与えられる者とされる貴い約束が示される時期である。(ペテロ14)この時期においては、なお悪が支配することが許されている。

   神が悪の支配を許されているのは、人々が、人間の特権と祝福を自ら放棄してキリストの死に則って生ける供え物となることを望んでいるかどうか、そして、復活の日にキリストに似た者となれるかどうかを、人類を悪と接触させることによって試すためである。(詩篇1715

G -
Messianic Age

"Look for new heavens and a new earth, wherein dwelleth righteousness."
II Peter 3:13

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     多くの時代から成る第三の大治世

第三の大治世Cは、多くの時代――来たるべき諸時代――から成っている。これらの時代のうち確かなことが書かれているのは、第一の時代である。一千年の時代、Gだけである。その時代はキリストが地の諸族を支配し、祝福し、すべての聖なる預言者の口から語られた万物の復興を成し遂げる時期である。(使徒行伝31921

  キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。最後の敵として滅ぼされるのが死――アダムによる死――である。(コリント1525

  勝利を得る者には、私と共に私の座につかせよう。それはちょうど、私が勝利を得て私の父と共にその御座についたのと同様である。と約束しているとおり、キリストの花嫁であり、キリストの体である教会は、キリストと一体のものとなる。(黙示録321

H - "Ages
to Come"

"In the Ages to Come he might show the exceeding riches of his grace." Ephesians 2:7

     大改造期に続く来たるべき時代Hは、完全、幸福、祝福等の時代であるが、この時代に関しては聖書は何も語っていない。

   しかし、これらの時代は、神の恵みに満ちた栄光と祝福の時代になるということを知るだけで十分である。

Jewish Age Harvest
"Lift up your eyes,
and look on the fields; for they are white already to harvest." John 4:35, Matthew 3:11,12
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     大治世は、それぞれ始まりと、神の御業の展開の時期と、果実を収める収穫期を伴った終りの時期とに明瞭に分かれている。ユダヤ期の終りにおける収穫は40年間であった。

   その時期は、キリストが聖霊によって油をそそがれ、公に伝道を始めた時、すなわちAD29年から、エルサレムの滅亡の時、すなわちAD70年に至るまでの間である。(使徒行伝103738

   この収穫を機に、ユダヤ期は終り、福音時代が始まった。この図に示されるように、この二つの治世には重なり合っている部分がある。

Jesus14Cross.jpg (4570 bytes)      ユダヤ期は、主が3年半の公伝道の終りにあたって見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまうと言ってイスラエルを拒んだ時、ほとんど終りを告げた。(マタイ2338)しかし、これ以後も3年半の間、神はユダヤ人だけに福音の召しを与えることによって恵みを与えた。

   このことはユダヤ人に対する特待の70週(ここで言う週は年で、一週は7年、70週は490年に関する預言者の言葉(ダニエル92427)のとおりである。特待の70週の最後の週、すなわち最後の7年間の真ん中(終りから3年半前)にメシヤが彼自身のためにではなく断たれた。すなわちキリストはご自身のためではなく、我々の罪のために死なれたのである。

   そして、ユダヤ人に対する恵みの70週の最後の週、(最後の7年間)の半葉、すなわち70週の満期から3年半前に犠牲と供物を奉納することはなくなった。キリストの死によって真の犠牲が奉げられたのであり、真の犠牲が捧げられた以上は、エホバの神は、もはや象徴としての犠牲を認めなくなったのである。

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Gospel to the Gentiles
     ユダヤ期は、第70週の終り、すなわちキリストが十字架にかけられてから3年半の後に完全に終わった。そして、その後の福音はユルネリオを以って始まった異邦人に伝えられたのである。(使徒行伝1045)これによって、ユダヤ教会に対する神の恩恵と承認は終わったが、国としてのユダヤの存在は、これに続く大混乱によって消失した。

福音時代は、ユダヤ期における収穫の時期から始まる。この福音時代の目的は、人々を世から召し出し、これらの人々を以って、神の教会――頭と体――を形造り、これらの人々を試すことである。この治世は霊的な活世であり、従って福音時代は、イエスが洗礼を受け、聖霊と力をもって油を注がれた時に始まったということができる。(使徒行伝1038、ルカ3224118)しかし、イエスの体となる教会に関しては、福音期はその3年半後に始まったと言う方が当を得ている。

Gospel Age Harvest
"In the time of harvest I will say to the reapers, Gather ye together first the tares, and bind them in bundles... but gather the wheat into my barn."
Matthew 13:30

"The harvest is the end of the age."
Matthew 13:39

      福音時代も、一つの収穫が行われて終りを告げる。そして、この時期にも2つの時代が重なり合う部分がある。すなわち、福音時代の終りの部分と復興の時、または一千年期の始まりの部分が重なり合う。

   福音時代もまた、福音時代の象徴であり影であったユダヤ期が各段階を経て終わったように、段階的に終わる。ユダヤ期において、収穫期の最初の7年間が肉によるイスラエルの特別な働きのために費やされ、彼らのために恩恵の年となったように、福音時代においても、福音教会にとって同じような恵みが与えられる7年間が存在する。

   そして、その7年間の後に悪に対する罰として、また義に対する準備として、世界のうえに大きな困難()が投ぜられる時期が続く。この時期に関しては再び述べる。

N - Plane of Human Perfection – Actual or Reckoned
"What is man, that thou art mindful of him?...Thou madest him a little lower
than the angels."
Hebrews 2:6-9

P - Plane of Typical Perfection
"For the law having a shadow of good things to come, and not the very image of things, can never with those sacrifices which they offered year by year continually make the comers  thereunto perfect."
Hebrews 10:1

R - Plane of Sin and Depravity
"Wherefore, as by one man sin entered into the world, and death by sin; and so, death passed upon all men, for that all have sinned."  Romans 5:12

栄光への道

KLMNPRは、それぞれ異なった平面を示す。Nは完全な人間の性質を表わす平面である。アダムは罪を犯す前にはこの平面に立っていた。しかし、神に対して不従順を犯した瞬間から堕落した罪深い平面であるRに落ち、彼のすべての子孫はその平面の上に生まれることになったのである。この平面は滅びに至る広い道と同じである。

   Pは律法に定められた犠牲によって有効と認定される義、すなわち象徴的な意味における義を表わす平面である。この平面は実際上の完全を示すものではない。なぜなら律法は何事も全うし得なかったからであるは完全な人間であったアダムがもっていた人間としての完全性を意味する平面を表わすだけでなく、義とされるすべての人々が立つ場所を表わす平面である。聖書によれば、キリストは我々の罪のために死んだ。

   それゆえキリストを信じる者は皆――自分を義としてくれる者としてキリストを信じ、キリストが成し遂げた完全で完結した事業を信じる者は皆――信仰によって、完全な人間としてあたかもかつて罪を犯したことのない人間として神から義とされるのである。神の目から見れば、キリストを救い主として受け入れるすべての人は、人間の完全性を表わすNの平面に立つこと認められるのである。人が神に近づき、神と交わることのできる唯一の場はこの平面である。

   ――人間の子ではあるが――とお呼びになる。アダムはかつて神の子であった。(ルカ338)不従順を犯す以前には神と交わりをもっていた。我が主、イエスが成し遂げた贖罪事業を信じる者は、原始の純潔性を回復した者としてみなされ、親しく神と交わり、霊的な平面の上で神の子として受け入れられるのである。

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Baptism -
A symbol of consecration.

  "...present your bodies a living sacrifice...
your reasonable service."
Romans 12:1

     福音時代には、神は義と認められた人間に特別の計らいをされ、一定の条件下において彼らは性質の変化を経験し、もはや彼らは地上のもの、すなわち人間であることをやめ、救い主キリストのような天的なもの、すなわち霊的な存在に変わると神は告げられる。

   一部の信者、すなわち義とせられた者は、罪の許しを信じることによって得た喜びと平和とに満足し、彼らに対するもっと高く昇れとの神の呼びかけを聞こうとしない。またある者は、彼らが罪からあがなわれた時に示された神の愛に感激し、自分は代価を以ってあがなわれたのであるから、もはや自分自身は自分のものではないことを感じ、主よ、あなたは私に何をさせようとお望みですかと問う。

   これらの問いを発する者は兄弟たちよ、そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたを神に喜ばれる生きた聖なる供え物としてささげなさい。それがあなたがたにふさわしい礼拝である。というパウロの言葉を通して神の答えを得ることができる。(ローマ121

   パウロが我々に対して、我々自身を神に対する生きた犠牲として差し出すよう勧めるのは何のためか?パウロが教えるのは、我々は、我々自身のもつすべての力と知恵を出し尽くして神に献身すべきであるということであり、今後我々は決して自分のため、友人のため、家族のため、世界のため、その他の何者かのために生きるのではなく、我々を自らの貴い血であがなってくれた方に対して従順に奉仕することによって、その方のために生きるべきであるということである。

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     しかし、神は汚れた、不完全な象徴としての犠牲を受け入れられないのであり、しかも我々は、アダムによって罪人となってしまっているのであるから、我々はいかにして神の御心にかなう供え物になることができるか?パウロは、我々が神の御心にかなう供え物となり得るのは、我々が清いためであると教えている。

   しかし、我々は罪を知らないキリストのように清くはない。なぜなら、我々は罪のとがめを受けた者の子孫だからである。また、我々は完全な行為ができる域には達してもいない。なぜなら我々は、神から求められている完全性に到達していないからである。

   我々はただ、自分の能力ではなく、神の恵みが現わされるために最終的には完全な栄光となる宝物を、こわれ易く、ひびだらけの土の器の中に持っているというに過ぎない。しかし、我々が神に受け入れられる聖なる犠牲となり得るのは、キリストが我々のために犠牲になったことを我々が信じることによって、神がその瞬間から我々を罪から解き放って義として下さるという事実によるのである。

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K - Plane of Glory
"To them who by patient continuance in well doing seek for glory and honour and immortality, eternal life." Romans 2:7

L - Plane of Perfect Spirit Being
"Jesus saith unto her, Touch me not;
for I am not yet ascended to my Father..."
John 20:17

M - Plane of
Spirit Begettal

"And the Holy Spirit descended in a bodily shape like a dove upon him, and a voice...said, thou art my beloved Son..." Luke 3:22,
Acts 10:38

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     この神の召しを理解し、そして従う人々は、キリストの名のゆえに辱しめられ、苦しむに足る者とされたことを喜び、目に見えるものを見ないで、目に見えないものを見る。それは命の冠であり、イエス・キリストにある高い召しの賞与であり、我々の中に現わされる栄光である。

   これらの人々は、神に献身した瞬間から、もはや人として扱われなくなり、真理の言葉によって神から新生を与えられるのである。もはや人間ではなく霊の子なのである。彼らは今、最初に信じ始めた時より一段高く進み賞与に近づいたのである。しかし、彼らは霊的な存在としてはいまだに不完全である。

   彼らはただ生命を与えられただけであって、いまだに霊的に完全に生まれていないのである。彼らは霊的な胎児であって、M平面、すなわち霊的懐胎の平面にいるのである。彼らはもはや人間としては扱われず、霊的な存在として認められる。なぜなら彼らは、ひと度義とされると、かつて彼らのものであった人性を捨て去り、あるいはこれを死んだものとしてしまうからである。すなわち彼らの人性は、生きた聖なる、神の意にかなう犠牲として神に捧げられてしまうからである。

   彼らは今、イエス・キリストにある新しい被造物となったのである。古いもの(人間的な希望、意志、野心)は過去のものとなり、すべてが新しくなったのである。なぜなら、もし神の御霊があなたがたの中に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるからである。コリント517、ローマ89)あなたが霊の命を与えられたなら(人間としての)あなたは死に、あなたの命はキリストと共に神の中に隠されているのである。

     L平面に入ることは誕生と呼ばれ、あるいは霊的存在としての生命に入ることと呼ばれる。教会全体は、収穫の時期において、あるいは福音時代の終りにおいて、世から召し出される時(選ばれる時)このL平面に入る。

  キリストにあって死んだ者が最初によみがえる。その後、生き残っている者が一瞬のうちに変えられる。すなわちキリストの栄光ある体のような体をもった完全な霊的存在に変えられる。(なぜならこの朽ちるものは朽ちないものを着るからである。)そして完全なものが来る時には不完全なもの(今我々が肉になる様々な障害に捉えられている状態)は消え去る。

しかし、霊的な存在者として完成した後にも、更に昇らなければならない階段がある。すなわち後に現われる栄光であって、これをK平面という。ここでいう栄光とは人格的栄光ではなく、権威と任務の栄光の意味である。

  L平面に到達すれば完全な人格的栄光、すなわちキリストのような栄光ある存在とされる。しかし、我々はこのように完成され、我らの主でありかしらであるキリストと全く同じにされた後、権威と任務の栄光によって主と一体とされる。――キリストが復活によって完全なものとされ、天上で神の右座に着かされたのと同様に、我々はキリストと共にキリストの王座に着くのである。このようにして、我々は永遠の栄光を示すK面に入る。

a - Adam
in Perfection

"And God said, Let us make man in our image, after our likeness..."
"And God saw every thing that he had made, and behold, it was very good..."
Genesis 1:27,31

b - Fallen Adam
and His Posterity before the Flood

"And God saw that the wickedness of man was great..."
Genesis 6:5

c - Ancient Worthies
"...Abraham believed God, and it was counted to him
for righteousness."
Romans 4:3

d - Mankind
from flood
to Messianic Age
 

"Wherefore, as by one man sin entered into the world, and death by sin; and so death hath passed upon all men, for that all have sinned."
Romans 5:12

e - Fleshly Israel Typically Justified as a Nation
"For the law having
a shadow of good things to come, and not the very image of the things, can never with those sacrifices which they offered year by year continually make the comers thereunto perfect."
Hebrews 10:1

f - Jewish Time of Trouble
"Whose fan is in his hand, and he will thoroughly purge his floor, and will gather the wheat into his garner; but the chaff he will burn with fire unquenchable."
Luke 3:17

g - Jesus at age 30, a Perfect Man 
"...Christ Jesus... made himself of no reputation and took upon him the form of a servant and was made in the
likeness of men."
Philippians 2:5,7

図で示される神の計画

図を注意深く学び、神の計画の様々な特徴を示す例証に注意しよう。これらの例証においては、完全を表わすものとしてピラミッドの形を用いる。なぜならピラミッドの形は例証にふさわしく、また聖書の中には明らかにピラミッドに言及する部分があるからである。

アダムは完全な存在、ピラミッドaであった。N平面にいるその位置に注意しよう。それは人類の完全性を示す平面である。罪と不完全の平面、あるいは堕落の平面であるRの平面上にある不完全な形、すなわち頭のないピラミッドは、堕落したアダムと堕落し、罪に染まり、死の宣告を受けたアダムの子孫を表わしている。

   アブラハムと当時の人々で、信仰によって義とされた人々は、N平面上のピラミッドCによって表わされている。アブラハムは堕落した人類の一員であり、もともとは他の人々とともに平面Rに属していたが、パウロの語るところによれば、彼は信仰によって義とされた。すなわち彼は信仰のために神によって罪のない完全な人間とみなされた。このことによって、神の評価では、彼は堕落した罪深い人間の世界から平面Nへと引き上げられた。

   そして彼は、実際にはまだ不完全なままであったが、アダムが失った特典、すなわち神のとして神と親しむ特典を受けた。(ヤコブ223)完全(無罪)の平面Nの上にあるすべての者は、神の友であり神は彼らの友である。しかし、平面Rの上にある罪人達は、神の敵である――悪い行いによって神に敵対している。

    図dによって現される大洪水以後の人類の世界は、いまだ平面Rの上に立っていて、神の敵であるが、この状態は福音教会が選ばれ、一千年期が始まるまで続く。

   雄牛や山羊といった象徴的意味の犠牲がイスラエルを潔めたユダヤ期(しかし、実際に潔めたのではなく、象徴的に潔めたのであるなぜなら律法は何事をも全うし得なかったからである――ヘブル719)において肉によるイスラエルは象徴的に義とされたので、P平面上(e)に立っている。

   象徴的な意味での義認は、シナイ山で律法が発布されてから、イエスが律法を十字架に釘づけしてこれを廃止するまで続いた。そして、象徴的な義認はユダヤ的な象徴よりも更によい犠牲すなわち世の罪を取り去り神に来るものを実際に完全にし得るものの確立によって廃止されたのである。(ヘブル101

     イスラエルがくぐり抜けた試練と困難の火は、図fによって示されている。その火は、キリストがイスラエル人をふるいにかけて名目的教会の中から真のイスラエル人という麦を選び出すために世に現われた時に、そして特にイエスが消えることのない火で教会の非なる部分である麦のカラを焼き捨てた時に、イスラエル人がくぐり抜けた火である。それはイスラエル人にとって逃れることのできない困難な時であった。(ルカ3172122、エテサロニケ216

イエスは30才の時は、完全な成熟した人間(g)であった。彼は神の恵みによって、すべての人のために死を味わうため、栄光ある霊的状態を捨てて一個の人間になった。神の律法による正義は絶対的なものであり、目には目を、歯には歯を、命には命をもって償わなければならないものである。正義の要求は他の方法をもって満たすことができないものであるため、一個の完全な人間が人類のために死ぬことが必要であったのである。天使の死は、刑罰の要求を満たして人類を解放することができない。

   それは雄牛や山羊の死が罪を取り除くことはできないと同じことなのである。それゆえ、神の最初の被造物と言われる者が一個の人間となり、人類を救うあがない(相当の代価)となるため、肉体となったのである。彼は完全な人間でなければならなかった。もしそうでなかったとしたら、堕落した人類が誰一人として代価を支払うことができなかったように、彼も代価を支払うことができなかったのである。

  彼は聖にして悪も汚れもなく罪人とは区別されたのであった。彼は罪人がもっている罪深い肉と同じ体――罪の肉の様――すなわち人間の体を持っていた。しかし、彼は完全な人間であった。彼は普通の人間とは異なって罪や不完全というものを持たなかった。ただ彼は、公伝道の中で悲しみや苦悩を人々と分かち合い、自分の活力と健康と力を彼らに分け与えることによって、彼らの苦痛と病を負ったのである。

Jesus41Crosssign.gif (17499 bytes)     彼は我々の病を負い、我々の悲しみを担った(イザヤ534力(生命、活力、体力)が彼らから出て人々を療した(マルコ530、ルカ69、マタイ81617)と記されている。

     彼は完全な人間として生まれたが己れを低くして死に至るまで従順であった。彼は神よ、私はあなたの御心を行うために来ました。(書の巻に私のためにしるされています)と言って、彼自身を神に捧げ、水による洗礼によって、彼の神に対する献身を象徴的に示した。

   このように、彼が神に身を捧げた時に、この供え物は清く純粋で神に受け入れられるものとなり、神は、供え物を受け入れた証として、彼に神の霊と力を与えた。すなわち聖霊が彼の上に下って油を注いだのである。

h - Jesus,
Spirit Begotten
at Jordan

"And Jesus, when he was baptized, went up straightway out of the water: and, lo, the heavens were opened unto him, and he saw the
Spirit of God descending like
a dove, and
lighting upon him."
Matthew 3:16

i - Jesus Resurrected as a Divine Being
"And he is the head of the body,
the church:
who is the beginning, the firstborn
from the dead..."
Colossians 1:18

     聖霊に満たされるということは、新しい性質、神聖なるものの懐胎であって、それは彼が供え物、すなわち人性という犠牲を完全に供え終った時に十分発育し、誕生するのである。この懐胎は、人類の状態より一段高いもので、霊的懐胎の平面であるM平面の上のピラミッドhで示される。

   イエスは、彼の人間としての存在が十字架の上で終わる前の3年半の間、この平面の上に生きた。彼は3日間死の状態にあった後、再び生命を与えられたのである。聖霊によって生まれた霊的な存在(i、L平面)――死者の中からよみがえった初穂――としての完全性をもったものとして生命を与えられるのである。

 霊によって生まれるものは霊である。それゆえ、復活後のイエスは霊であった。霊的な存在者であって決して人間的存在ではなかった。

イエスは復活の後、彼の弟子達に教えを説くため、そして彼らに対して自分はもはや死んでいないということを証明するため、人としての姿をとって現われることができたし、また実際に現われた。しかし、彼はもはや人間としての条件に支配されることはなかった。

  彼は(戸が閉ざされている時でも)風のようにやって来て、風のように去ることができた。しかし、彼がどこから来て、どこに去ったのかは誰も知らない。霊によって生まれた者は皆このようである(ヨハネ382019と比較せよ)

k - Jesus,
40 days after his resurrection in divine glory

"Which he wrought in Christ, when he raised him from the dead, and set him at his own right hand in the heavenly places, far above all principality and power, and might, and dominion, and every name
that is named."
Ephesians 1:20,21

l - Jesus,
in the Gospel Age, set down
with the Father
on His  throne
 

"To him that overcometh will I grant to sit with me in my throne, even as I also overcame and am set down
with my Father
in his throne."
Revelation 3:21

     イエスが洗礼を受け、自らを犠牲として捧げたその瞬間から、彼の人性は死んだものとみなされ、新しい性質が生まれたと認められた。そして彼は、復活の時完成されて、完全なる霊の平面Lに達した。すなわち彼は霊的存在になった。

復活後40日目においてイエスは、神の栄光の平面Kの上(ピラミッドk)の高座に昇った。福音時代を通じて、彼は父とともに御座に座し(l)地上の教会のかしら――指揮者、指導者――として栄光の中にいる。

   福音時代の全期間を通じて、教会は成長、訓練、試練などの過程を経る。この時代の終末、すなわち収穫期に、教会はキリストの花嫁となり、キリストと一体の相続人となるためである。それゆえ、教会はキリストと共に苦しみ、時期が来ればキリストとともに(K平面において)栄光の中に置かれるのである。

 教会が栄光に向って登る階段は、指導者が登ったと同じ階段である。指導者である主は弟子達に御足の跡を踏み従うようにと模範を残されたのである。ただ、教会は指導者よりも低い所から登り始めるというに過ぎない。すでに見たように、主は人類の完全を表わす平面であるN平面において世に現われたが、我々すべてのアダムの子孫は、より低い平面であるR平面、すなわち罪と不完全と神に対する敵であることを表わす平面においてこの世に現われる。

   まだ罪人であった時、私達のためにキリストが死んで下さったことによって神は私達に対する愛を示されたのである。(ロマ58

   それゆえ、我々が義とされる平面、すなわち完全な人間の平面に到達するための条件は、キリストが我々のために死に、我々を救済し、我々がキリストの血を信ずる信仰によって完全の平面、すなわちかつて我々がアダムの罪によって失った完全の平面に引き上げられるということなのである。

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     私達は信仰によって義とされる(N平面に引き上げられる)私達は信仰によって義とされたのだから、私達の主イエス・キリストにより神に対して平和を得ている。(ロマ51)もはや神の敵としては見られず、アダムが堕落する前にいた、そしてイエスがいた同じ平面上に立って、義とされた人類の子孫と見なされる。

   ただ、堕落する前のアダムやイエスが実際に完全であったのに対し、我々は神によって完全と認められるに過ぎないのである。お前たちは買われあがなわれ何の代価もなしに義とされるという神の言葉を信じることによって、我々は義と認められる。我々は信仰によって、我々に与えられるキリストの義の衣を着て、しみも傷みもない清い者として神の御前に立つ。

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   イエスは我々のために我々に対する刑罰を自分が受けようとして我々の罪を負い、我々のために自らが罪人であるかのように死んだ。その結果イエスの義は、イエスの救いを受け入れるすべての人に与えられ、この義によって彼らが罪を犯す前にもっていたすべての権利と恵みが回復される。

   イエスの義は、我々の生命を蘇らせ、神との交わりを復活させる。この神との交わりは、信仰によって直ちに得られ、神が定めた時が来れば、生命とより親密な神との交わりと喜びが必ず与えられる。

     しかし、ここで銘記しなければならないのは、神によって義とされるということは、有り難いことではあるが、そのことが人間の性質*を変えてしまうのではないかということである。我々は人間であることに変わりはない。

   *性質という言葉は、あの人は悪い人だというような使いかたをされる場合には、便宜的な意味で使われているのである。厳密に言えば、生まれながらにして悪い人はいない。人間の性質は非常に善であり、神の性質が地上に現われたものである。このためすべての人の性質は善である。ただ困ったことには、その善の性質が腐敗しているのである。人間が悪くなったり、残酷になったりするのは不自然であり、神のようであるのがむしろ自然である。ここで使う人間の性質という言葉は、このような人間が本来持っている性質のことである。我々は、キリストによって義とされ、地上に現われた神の像たる人性に付随するすべての特権と恵みを再び与えられる。

     我々は罪、神から離された状態から救済されて、罪人ではなくなり、人の子となるのである。我々が子となるがゆえに、神は子としての我々に語りかけられる。

   福音時代を通じて、神は、わが子よ、あなたの心を私に与えよすなわちキリストが模範を示したように、あなた自身をあなたが地上で持っているすべての力と意志と能力とすべてのものを私に捧げなさいそうすれば、あなたを子として人間のいる平面より一段高い平面に引き上げようと呼びかけながらキリストと共同の相続人たる小さき群を求め続けてこられた。

   私はあなたを父の本質の姿である復活したキリストのような霊的な体を持った子にしよう――もしあなたがたが、地上的希望や野心や目的など諸々のものをすっかり捨て去り、人性のすべてを私に捧げるなら、私はあなたがたに他の者よりも高級な性質を与えよう。

   あなたがたを神性の享受者、すなわち神の相続人、キリストと共同相続人としよう。キリストと共に苦しむなら、キリストと共に栄光を得るであろう。

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The Widow's Mite - pictures the Christian giving his/her all in consecration.

 

 

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     福音時代に神から示されたこの恩典を正しく評価する人々は、あらゆる困難を排して、この恩恵が受けられるよう、忍耐をもって神の定めた競技に参加するのである。我々が義とされるためには行いは要求されない。主イエスが、我々が義とされるための働きを成し遂げられた。そして、キリストが成し遂げた業を、信仰によって受け入れる時、我々は義とされN平面に引き上げられる。

   しかし、我々が一層向上しようと望むならば、然るべき行為をしなければならない。我々が信仰を失ってはならないことは言うまでもない。さもなければ我々は認められた義を失うであろう。けれども、一旦義とされ、信仰を持ち続けるなら、(霊的懐胎によって与えられる恵みを通して)神の心にかなう果実を結ぶ働きをすることができる。神はこれを要求される。

   なぜなら、我々がこれを果たすことがすなわち神に誓った犠牲を捧げることであるからである。神は、我々がすべての持てるものとすべての存在を捧げて神の恵みに感謝の気持を表すことを求めている。キリストを通して神に受け入れられる清い犠牲は、人に対してではなく、神に対して捧げられなければならない。それは神に対して我々が捧げることができる最もふさわしい礼拝である。

   我々は、すべてを神に捧げるに当って、主よ、あなたは私の犠牲、私の時間、私の才能、私の力などをどのようにしてあなたに捧げるよう私に求められるのですか?と神に向って問うであろう。そして神の答えられる御言葉に耳を傾けるのである。すると神の声はお前の主イエスが行ったように、すべてを私に捧げなさい。

   それはすべての人に対して、特に信仰の家族に対して、機会あるごとに善を行うことである。能う限り、彼らが必要な限り、彼らに対して霊的食物と自然の食物を与え、彼らにキリストの義の衣と地上の衣を着せなさいと教えるのが聞こえるのである。すべてを神に捧げてしまえば、我々は霊の命を与えられ、M平面に達するのである。

   そして我々は、神から与えられた力を使えばすべての契約を果たすことができ、我々を愛し、我々を自分の貴い血で買ってくれた方の能力と霊によって、勝利者、否勝利者以上の者となるのである。しかしながら、キリストの御足の跡を歩むとき、勝ち得た勝利のことを考えるな、安易に座り込むな、あなたの王冠を得るまでは、あなたの苦しい仕事は終わらないのである。

我々の王冠は、忠実な兄弟パウロのように、善き戦いを戦い、定められた戦いを終えた時に与えられるのであり、すぐに与えられるものではない。その日まで、我々の労働力と奉仕という犠牲の焔と香――主イエス・キリストを通じて神に捧げる香ばしい香りの犠牲――を毎日供えなければならない。

  このような戦いの勝利者で、眠っている者は霊的存在としてL平面において蘇らせられる。また、主の再臨まで生き残っている勝利者は、同じ平面において、土の器を死滅させる必要はあるが、一瞬といえども眠ることなく霊的存在に変えられるのである。彼らはもはや、弱くてこわれやすい滅ぶ定めの地上の存在ではなく、完全に霊として生まれ、天に属する不朽の霊的存在となるのである。(コリント154452

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     彼らがL平面において霊的存在に変わった後、K平面においてキリストと完全に結合して力と栄光が与えられるまでの間、どれくらいの時間がかかるかは我々には分からない。ただ、我々は、キリストの頭と体が完全に結合し、栄光を与えられることをもって小羊とその花嫁の結婚が行われたものとして理解する。そして結婚の時、花嫁すなわち彼ら教会は神の喜びに入るのである。

m - Spirit Begotten Class who become the Great Company
"...a great multitude, which no man could number... stood before the Lamb, clothed with white robes, and palms in their hands."
Revelation 7:9

 

n - Spirit Begotten Class who become the Bride of Christ
"Fear not, little flock, for it is your Father’s good pleasure to give you the kingdom." Luke12:32

   再び図表を参照されたい。n、m、p、gは自らをキリストの体であると称し、全体としては名目上の福音教会といわれるものを表わす4つの異なった階級である。n階級とm階級はともに霊的懐胎の平面であるM平面上にある。これら2つの階級は福音時代を通して存在する。

   これら2つの階級は生きた犠牲になることを神に誓い、愛された者において受け入れられ新しい被造物として霊の命を与えられた者である。これら2つの階級の相違点は次の点である。nが神に対する誓約を実行しつつある人々で、キリストと共に地上の意思、目的、野心を捨てた人々を表わすのに対し、mは一旦誓いをたてながら、これを実行し得ない霊的な胎児の大きな集団を表わす。

   n階級は、キリストの花嫁として主と共に栄光の座、平面Kにつく勝利者から成ってしる。神がその王国を喜んで与えようとする小さき群とは彼らのことである。(ルカ1232)m階級の人々は、人間の意思を捨てることを恐れる人々であるが、神はなお彼ら愛されるがゆえに、彼らに艱難辛苦を与え、完全な霊的平面Lに導こうとされるのである。

   しかし、彼らは勝利者ではないため、栄光の王座であるK平面に立つ権利を失うであろう。もし我々が神の愛を貴び、主から認められることを望み、主の体として、主の花嫁として主と共に王座につくことを願うならば、我々は誠実に、嬉々として犠牲の誓約を実行しなければならない。

p - Believers,
but not fully consecrated

"For many are called, but few
are chosen."
Matthew 22:14

 

q - Church- Goers, but not Believers; Hypocrites
"Beware of false prophets, which come to you in sheeps’ clothing, but inwardly they are ravening wolves."
Matthew 7:15

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"Let both grow together until the harvest; and in the time of harvest I will say to the reapers, Gather ye together first the tares, and bind them in bundles to burn them: but gather the wheat
into my barn."  
Matthew 13:30

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     聖別されない名目的教会

名目的教会といわれるものの大部分は、P階級によって表わされる。彼らがM平面ではなく、N平面にいることに注目すべきである。彼らは義とはされてはいるが、聖別されてはいない。彼らは自分自身を完全に神に捧げていないために霊的存在の命を与えられていない。

   彼らは、イエスを彼らの罪をあがなった人として信じるがゆえに、世の人々より一段高いところに立っているが、この時代において神の霊的家族の一員となれという神の召しをいまだに受け入れていないのである。もし彼らが信仰を持ち続け、キリストの王国の義の法に従うなら、回復の時において、罪を犯す以前のアダムのような完全な人間になるのである。

   彼らはアダムによって失ったすべてを完全に回復するのである。彼らは知的、道徳的、身体的にアダムと同じ完全な人間になり、アダムと同じ神をかたどって造られたものに戻るのである。なぜなら、彼らがあがなわれたのは、このようになるためであるからである。

   キリストによる救いを聞き信じて彼らが義とされ、位置づけられたところ――平面N――は、彼らが信仰によって世の人々よりも早く与えられる祝福された位置である。(なぜなら、世のすべての人々は、一千年期において、真理に関する正確な知識が与えられるからである。)彼ら、キリストの救いを信じる者は早く出発し、正しい方向に一歩踏み出しているという点で有利な立場に立っている。

   キリストの体の一員となる人々としてn階級に行くことが許されているのである。P階級に属する人々は、神によって義とされたという恩恵をいたずらに受けているのである。(コリント61

  キリストの体を構成する人々でもないが、パウロは彼らを兄弟と呼ぶ。(ロマ121)同じ意味で、全人類は回復される時、たとえ性質の違いはあるにしても、永遠にキリストの兄弟、そして神の子とされるのである。神はどのような平面にいようと、どのような性質の存在であろうと、神に和合する限り彼らの父である。

     名目的教会と言われているものに属する人々の中にも、イエスを罪のための犠牲として信じない階級がある。この階級は従って義とはされず、N平面の上ではなく、N平面の下のgの部分で表わされる。彼らは羊の衣を着た狼である。けれども彼らは自らをキリスト教徒と呼び、名目的教会の構成員として認められている。彼らはキリストを救い主として心底信じている人々ではない。

   彼らはR平面に属し、俗世の構成員であり、真の教会とは何ら関係がなく、むしろ教会に害を及ぼす。福音時代を通じて、このような混とんとした状態の中でn、m、p、gのような様々な階級が入り乱れ、それぞれが自らをキリスト教徒と称するという状況の下で教会は存続してきた。

   主が預言したように、名目的天国(名目的教会)は、麦と毒麦が播かれた畑のようなものである。イエスは、世の終りの収穫まで両方とも育つままにしておけと言われた。収穫の時になったら刈る者(天使――使者)に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれと言われる。(マタイ13384149

     これらの主の言葉は、福音時代の間は麦と毒麦の両方を生えさせておき、名目的教会の構成員として認めておくが、時が来れば、これらの異分子を引き離そうとされていることを教えている。その時、真の教会、神の聖徒(n)は神に認められ、神に属する者であることが明らかにされるのである。(マタイ1339

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     福音時代においては善き種は成長し、毒麦もまた成長している。善き種は御国の子たちであり霊的子孫であり、n階級とm階級に属する者であるが、毒麦は悪い者の子たちであるg階級に属するすべての者とP階級に属する多数の者は毒麦である。なぜならだれも2人の主人に仕えることはできないからであり、また人は仕えるものの僕であるからである。

   P階級の人々は、自分をあがなってくれた主に対して奉仕と能力とを捧げず、ふさわしい供え物をせず、疑いなく彼らの時と能力を神に逆らって使い、神の的を利するのである。さて、図上の収穫期あるいは福音時代の終りの部分を見よう。2つに分けられた部分を見よう。それらは、7年の部分と33年の部分に分けられていて、ユダヤ期の収穫期とちょうど同じである。

   福音時代の収穫期も、ユダヤ期の収穫期と同じように最初が教会に対して試練とふるい分けが行われる時期であり、後の部分が神の怒りの時期、すなわち名目的教会も含めて、世の人々に対して7つの災いがもたらされる時期となっている。ユダヤ期の教会は、福音時代の教会が霊的変面において受けるすべてのものの、肉的平面における影であり象徴であった。

   ユダヤ期の収穫において、肉的なイスラエルを試したものは、彼らに示された真理であった。この真理は鎌であって、名目的教会から真のイスラエル人を分離したのはこの鎌であった。

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The Harvest
is a time
of separation
...the Wheat
from the Tares.

     そして真の麦、すなわち真のイスラエルは、イスラエル人と自称している人々の数と比較してほんの小人数に過ぎなかった。福音時代の収穫もまたこれと同じなのである。福音時代の収穫は、ユダヤ期の収穫と同じように、刈り入れ人の長、すなわち確かに我々と共におられる主イエスの監督の下で行われる。(黙示録1414

   福音時代における主イエスの最初の仕事は、真の信徒と虚偽の信徒を分離することである。名目上の教会は、真偽の混じり合ったものであるので、主イエスはこれをバビロンすなわち混乱と呼ばれる。収穫期とは、名目上の教会の中から異分子たる種々の階級を分離し、n階級だけを円熟させて完成させる時なのである。

   麦は毒麦と分離され、熟れた麦は未熟の麦と分離される。n階級に属する人々は、麦の初穂であって、やがて定められた時には、キリストの花嫁となり、永久に主とともに在り、主の如くなるのである。

r - Jesus, at His second advent
"And if I go and prepare a place for you, I will come again, and receive you unto myself; that where I am, there ye may be also."
John 14:3

s - Little Flock, separating from nominal church
"And I heard another voice from heaven, saying, ‘Come out of her, my people, that ye be not partakers of her sins, and that ye receive not of
her plagues."
Revelation 18:4

S - World's time of trouble in Gospel Harvest. Separation of Wheat and Tares.

 

     この小さき群のバビロンからの分離は、sの形で示される。この小さき群は、主と一体となり、主の名を負い主の栄光を分かち合うための途上を歩んでいるのである。栄冠を戴いたキリスト――頭と体――はwで示される。t、u、vはバビロンすなわち名目的教会を表し、我らの主の日における困難の時の間に崩壊し、粉々に砕けるのである。

   このようなことは恐ろしい事のように見えるが、実際にには真の麦である人々にとっては大変恵みに満ちたことなのである。バビロンは自ら主張するとおりのものではなかったために滅亡するのである。名目的教会の中には、多くの偽善者が含まれている。彼らは教会が世の人々に対して名誉ある地位をもっているため、その名誉にあずかろうとして教会と交わりを持つが、彼らはその行いによって、バビロンを世の鼻つまみ者にしてしまうのである。

   主は終始、彼らの本当の性格を知りつくしておられるが、主は主の考えられる目的のために、収穫の時まで彼らをそのままにしておかれる。そして、収穫の時が来れば、主は主にそむくすべての者、悪を行うすべての者を集めて主の王国、すなわち真の教会から排除し束にして炉の火――名ばかりの組織や虚偽の信仰を破壊する困難――の中に投げこまれるのである。その時、義とされた人々(n階級)は父の国において太陽の如く輝くのである。(マタイ134143

     教会の上に降りかかる困難は、大部分が種々の無神主義や心霊術がはびこったために起るものであり、それはバビロンが神の言葉に反する多くの教義を固持するために益々激烈な試練となるのである。ユダヤ期の収穫においてキリストの十字架は、名誉と権勢を求めるユダヤ人にとっては、つまづきの石であったし、また俗世の知恵に富んだギリシャ人にとっては馬鹿げたものであったように、福音時代の収穫においても十字架はつまづきの石、さまたげの岩となる。

t - Great Company
"Now if any man build upon this foundation ...wood, hay, stubble; ... it shall be revealed by fire; and the fire shall try every
man’s work..."
I Corinthians  3:12,13

u - Babylon Falling
"And the great city was divided into three parts, and ... fell; great Babylon came in remem- brance before God to give unto her the cup of the wine of the fierceness of
his wrath."
Revelation 16:19

v - Babylon, Hypocrite Element
"And he cried mightily with a strong voice, saying, ‘Babylon the great is fallen, and is become the habitation of devils, and the hold of every foul spirit." Revelation 18:2

w - Glorified Christ, Head
and Body
 

"And I John saw the holy city, the new Jerusalem...prepared as a bride adorned for her husband."
Revelation 21:2

     真理の金、銀、宝石とそれにふさわしい品性以外のものをキリストの土台の上に築く者はだれでも怒り(火)の時の間中、厳しい試練を受ける。なぜなら、教理と実行との木、草、わらはすべて焼きつくされるからである。

   真理で築き、神から認められる品性を持つ者はSで表わされるが、tは大勢の群衆を表し、彼らは霊の命を与えられているが、木と草とわらで築いている。――彼らは麦であっても初穂(S)を集める時、また熟れていない麦である。彼ら(t)は、王位と神性という恵みを失うが、終局的には神性よりも一段低い霊的存在者として生まれるのである。

   彼らは真に自らを神に捧げてはいるけれども、俗世間的な考えにとらわれているので、自らの生命を犠牲として捧げることができないのである。収穫の時、生きているキリストの花嫁となる人々は真実という鎌によって他の人々から分離されているけれども、その時においてさえ、t階級を含めた他の人々の耳はよく聞こえないのである。彼らは分離される時、心が鈍く敏活な行動がとれないのである。

   彼らは、後になって花嫁となる人々が完全に決まってしまい、主と一つになったということと、彼らが無関心で多寡をくくっていたために、かの大いなる恵みを失ったこととを知って、非常に力を落とすのは疑いない。しかしながら、彼らは神の愛が彼らおよび人類全般に対するものであることを知りはじめ、その美しさに打たれて嘆くのをやめるのである。そして彼らは叫ぶであろう。

   ハレルヤ、全能者に対して主なる我々の神は、王なる支配者であられる。私達は喜び楽しみ神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意を終えたからである。(黙示録1967

   主の豊かな摂理に注目しよう。彼らに対しても、あなた方は花嫁ではないけれども、婚姻の宴に出席してもよいというメッセージが送られるのである。小羊の宴に招かれた者はさいわいである。(9節)これら多くの人々は、主の戒めによって、やがて主とその計画に完全に和して花嫁に次ぐ地位(霊的平面Lの上のy)に就くために彼らの衣を洗うのである。(黙示録71415

x - The glorified Christ class reigning
"...they shall be priests of God and of Christ, and shall reign with him a thousand years."
Revelation 20:6

y - The Great Company
"...a great multitude which no man could number...stood before the throne, and before the Lamb, clothed
with white robes,
and palms
in their hands."
Revelation 7:9

z - Fleshly Israel restored
"And so all Israel shall be saved: as it is written, There shall come out of Zion the Deliverer,
and shall turn away ungodliness
from Jacob."
Romans 11:26

 

     困難の時は、全世界に影響を及ぼすものであるが、それはバビロンが崩壊しはじめた後に始まる。それは、人間社会と政府が崩壊時であり、この時に正義の治世を打ち建てるための準備が行われる。

   困難の時の間に、肉によるイスラエル(e)すなわち、異邦人の時が満ちるまで見捨てられていたイスラエルは、神の恵みによって回復させられ、福音教会すなわち霊によるイスラエルは完成され、栄光の地位に就けられるのである。一千年期間イスラエルは地上における国民の首領となり、地上的存在を表わす平面にあるすべての者の上に立ち、単一国家となり、従順な者はこれに従い調和する。

完全な人間性の回復は、一般の世界の回復と同様に徐々に行われる仕事であり、完成するまでには一千年期すべての期間を要する。一千年にわたるキリストの治世の間に、アダムの罪によって起きた死という結果が次第に消され滅ぼされる。死のさまざまの段階、すなわち疾病、苦痛、衰弱、墳墓は、本書の図の大ピラミッドが完成する一千年期の終りまでに、大回復者の力によって制圧されてしまう。キリスト(x)は万物――大勢の群衆、天使及び人類――の首領として父に次ぐ地位につく。

   ――万物更新のとき――の間に徐々に行われる。(使徒行伝321)しかしながら、一部の人々は滅ぼされてしまう。

   100年の間正義と完成に向って進むことを拒む者(イザヤ6520)次に、完全に向かって進みながら、一千年期の終りにおける最後の試練の際に不忠実とされる人々。(黙示録209)これらの人々は、復活も回復も約束されない第二の死を与えられるのである。ただ一回だけの十分な個人的裁きが行われ、一回だけのあがないが行われるのである。キリストは再び死ぬことはない。

W - Mankind restored
to perfection
and harmony
with God

"... Behold the tabernacle of God is with men, and he will dwell with them,
and they shall
be his people,
and God himself
shall be with them,
and be their God."
Revelation 21:3

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教会が高みに引き上げられ、万物を回復することによってイスラエル人及び地上の全家族を祝福するという神の大計画を見る時、いと高きところでは神に栄光あれ、地上には平和、人には恵みあれという天使の讃美を想い起こす。それは神の計画の完成である。

キリストにおける万物の集合である。これを見る時、誰が神の計画は失敗に終わったと言えようか?その時、神は善のために悪に勝つことなく、人間と悪の怒りを神への讃美に変えることはないと誰が言えようか?

ピラミッドの形は、完全なる存在を表わすのに役立つだけでなく、全創造物の統一性を示すという目的にかなっている。キリストの体である教会だけでなく、天と地に存在するすべてのものの頭であるキリストの指導下に、万物の調和と完成が達成される時、神の計画が完成し、その中で万物は一体のものとなる。(エペソ110

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     キリスト・イエスは、これから建設されようとするこの大構築物の最初のものであり、かしらかしら石隅のかしら石である。すべての下層の石は、構築物全体の線と角度がかしら石の形と調和するように配慮して積まれなければならない。

   この構築物の中にどんなに多くの種類の石があろうとも、天と地に住む神の子たちの間にどんなに多くの異なった性格があろうとも、永久に神の意にかなうものとするためには、それらはすべて神の御子の像に似せて作らなければならない。何人もこの構築物の一部となろうとする者は、神に対する従順の精神と、神及び神の被造物に対する愛の精神を持たねばならない。

   すなわち(イエスによって十分示されたように)心をつくし精神を尽くし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよという律法を実行しなければならない。

最初に選ばれたキリスト・イエス

(神の言葉が示すように、天と地の万物は一つのかしらの下に統一されるが)その過程においては、先ず第一にかしらたるキリスト・イエスが選ばれ、次にキリストの体となる教会が選ばれる。天使や他の霊的階級の者は、その次に位置し、その次にイスラエルの偉人たちと世界が位する。この位づけは、最上部から始まって下位へと進み、すべての者が調和と統一の中に組み込まれるまで続くのである。

   ここで注目すべきひとつの特徴は、試練を経た隅のかしら石が、最初に据えられて礎石と呼ばれる点である。このことは、神と正義とに対するすべての希望の礎石は地上にではなく、天に据えられるという事実を表わしている。この天の礎石の下に据えられ、これと組み合わされる石は、天の引力と法則によって礎石の所に引き上げられるのである。

   この順序は、地上の建物を造る順序とは正反対であるが、後から造られる建物全体と同じ形の石が最初に据えられるということは何と理にかなっていることか。また、我々の礎石が下向きにではなく、上向きに据えられ、我々は生きた石としてすべての事において彼にあって建てられるとは何と適切なことか。

   このように、この事業は一千年期の間、天と地のあらゆる性質をもったあらゆる被造物が絶対的な従順さで神に仕え、神を讃美するようになるまでの間、行われるのである。その時、宇宙は新しくなる。なぜならその日には、この預言者に聞き従わない者は、みな民の中から滅ぼし去られる――第二の死において――からである。(使徒行伝32223

 

 

 

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u - Brazen Altar

 

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v-Laver

 

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x-Candlestick

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荒野の幕屋

 時代区分の中で示された教訓と同じ教訓は、神の計画の中に組み込まれている模型のなかでも教えられている。その教訓については後で詳しく述べる。ここに時代区分の図表と幕屋の図を並べて置いたのは、幕屋の至聖所に通じる異なった平面または階段が、既に詳しく述べた時代区分の図表の階段と同じ階段であることを示しているということを理解してもらうためである。

   幕屋の外庭には、腐敗した平面を表わすR平面上に存在する罪に染まった全世界が広がっている。を通ってに入ると我々は信徒となり義とされた人にんってN平面に立つ。献身して前に進む者は、幕屋の戸を開けて中に入り(M平面)祭司となる。

   彼らは燭台の光に照らされた供えのパンによって強められ、金の祭壇においてイエス・キリストによって神の意にかなう香を捧げることができるように変えられる。遂には、彼らは第一の復活において完全な霊的状態、すなわち至聖所(L平面)に入り、その後王国の栄光(K平面)において、キリストと交わることができるのである。

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