世々にわたる神の計画

第 9 章

 贖いと回復 

 

Jesus1DownCrossF.jpg (6870 bytes)

 

――あがないによって保証された回復

――あがないによって与えられるのは永遠の命
           ではなく、永遠の命を得られるか否かがさ
           ばかれる機会であるということ

――さばきにおける人間の周囲の条件と有利な条件

――キリストの犠牲の要性

――ひとりの死によって、将来人類が救われ、
           過去に実際に救われたことがどうして可能
           なのであろうか

――しかし、今もなお、あがないを信ずる信仰と行
          為が必要である

――不信による罪の報いは決まっている

――あがないによって復活する幾億の人類が、
           この地上に住みうるか否か

――回復と進化の比較。

 

Restitution –
the logical result
of the ransom.
Jesus11Death.jpg (10555 bytes)
     第8章までに述べた神ご自身の示された計画の概略によって、人類のためのご計画は、かつてエデンで失った人間の完全性と栄光の回復、または復古にあることが明らかになった。キリストのあがないの性質とその範囲が十分に理解されてはじめて、回復に関する最も強く決定的な証拠をみることができるのである。

   使徒と預言者によって預言されている回復が、あがないに続いて必ず来ることは、あたりまえの論理的結果である。神があがないを備えた時の考えの通りになれば、私達人類がこの偉大な救い主の力に頑固にさからわない限り、すべての人は最初の罰であるほろびのなわめすばわち死から救い出されるのが当然なのである。

   そうならなければ、あがないがすべての人に恵みを与えることにならないからである。

Christ gave himself
a ransom for all –
so that he
might bless all.

 

wpe1E7.jpg (16290 bytes)

     この問題に関するパウロの論理は最も明瞭でしかも要を得ている。パウロは言う、なぜなら、キリストは死者と生者との主(支配者・治者)となるために、死んで生き返られたからである。(ローマ149

   すなわち、私たちの主が死んで、また復活された目的は、生きている人たちを祝福し、支配し、そして原始の状態に復古させるためだけではなく、生きている人たちと死んだ人たち*とを完全に支配する権利を持ち、両方に同等な主のあがないの恵みを保証するためなのである。*

  *パウロの言ったことばには、もっと広い意味が含まれていることを認める必要がある。すなわち、死んだ人たちという言葉には、全人類が含まれているということである。神の目から見れば、死の宣告を受けた全人類は、既に死んでいるのと同然だと受けとられるのである。(マタイ822

してみると、生きている人たちというのは、人類では、まだ命が保証されている存なく在――天使たち――を指しているということになる。

     キリストはすべての人のために、ご自身をあがない(身のしろ金)としてささげられた。すべての人たちを祝福し、ひとりひとりに永遠の命を得る機会を与えるためである。しかし、すべての人たちのためのあがないを払ったと主張する一方、あがなわれた人たちの中から、ほんのわずかな人だけがその恵みを受けることができると主張するのは矛盾ではないだろうか。

   なぜなら、神は身のしろ金を受け取られた後に、救われた人たちの釈放を不当にも拒んだことになるか、或いは、神はすべての人たちの罪をゆるされたが、かねての寛大なご計画の実行ができなくなったか、それともそれを取り消したか、そのどれかであるはずだからである。神のご計画の不可変性は、神の義と愛の完全性と同様に絶対的なものである。

The ransom guarantees
every man
an opportunity
for life.

 

Grave16.jpg (5320 bytes)

 

Prior experience
with evil will be
a great advantage during the new trial.

     だから前に述べたような考え方は、それと矛盾するので、しりぞけるべきであり、すべての人のためのあがないが根本をなしている。かねての寛大なご計画は、神のお考えによる適当な時期に必ず実行されるという確信を持つべきである。

   そして、神は忠実な信徒たちに、アダムの受けた呪いが解かれる恩恵と、罪と呪い以前に神の子たちが授かった権利と自由の状態にかえる機会をお与えになるであろう。あがないの実際的恩恵とその結果を明らかに見ることができるようになって、はじめてあがないの普遍的適用性に対するあらゆる反対説が自然消滅されるのである。

   すなわち、人なるイエス・キリストによって与えられたすべての人たちのためのあがないは、誰にでも永遠の命の祝福を保証するのではなく、永遠の命を約束されるさばきを受けるもう一度の機会を保証している。

   人間の最初のさばきは、あらかじめ人間に与えられていた神の祝福を失う結果におちいったけれども、実は、それがかえって忠実な心の持ち主にとっては、祝福された経験になるのである。というのも、神が与えたあがないのためである。しかし、人間が最初の刑罰からあがなわれたという事実それ自体が、永遠の命を約束するさばきを受ける時、各自が必ずしも神に従順であることを保証してくれるのではない。

   又、神に従順でない人が永遠の命を許されることもない。人間は、罪とそのための苦しい刑罰を経験しているので、あらかじめ十分な警告を受けていることになる。それで、神が下さったあがないの結果、人間はキリストの主宰のもとにもう一度、個人的さばきを許される。

   というのは、キリストはご自身の命を捨て与える程、人間を愛したためであり、又、一人でも人間が死に去ることを望まず、みんなが神に立ちかえり生きることを望んでいるためである。だから自分の意志で反逆をする人たちだけが、二度目の裁きによる刑罰を受けることを私達は信じる。

   その刑罰は二度目の死を意味するので、あがないもなく、救われて釈放されるということもあり得ない。なぜなら、それ以上、もう一度のあがないも、もう一度のさばきも必要性が認められないからである。

TIPermissionEvilF.jpg (4316 bytes)

The Adamic trial -
"As in Adam
all die,
so in Christ shall
all be made alive."
I Corinthians 15:22

     私達すべては、そのさばきまでには、善悪の両方を十分に味わって経験することになるのである。又、誰もが神の善と愛を目撃し、経験することになるのである。そしてみんなが最も有利な条件のもとに、生命を約束される公正なさばきをひとりひとりが受けるわけである。

   それ以上は、私たちが要求することもできず、又、それ以上は与えられることもない。そのたった一度のさばきで義なる者と聖なる者を永久に決定するのである。千度のさばきでも、その人たちには同じ判決がくだされるはずである。

   又、そのさばきは不義なる者、不正なる者、不潔なる者をも決定するが、これも同様に、千度のさばきでも、その人たちには同じ判決がくだされるはずである。

The ransom
releases the sinner
from the first
condemnation.
     全く同じ周囲の条件のもとに、永遠の命を受けるもう一度のさばきを与える必要はない。さばかれる人たちの条件が、実際、変っていて、もっと有利であろうと思われるけれども、永遠の命を得る個人のさばきの条件は、昔のアダムのさばきの時と少しも変らないであろう。

   神のおきては昔も今も、又未来も同じく少しも変らないのである。罪を犯すものには死をさずけるということばは永遠に変らないであろう。そして周囲の条件に関する限り、エデンにおける条件と環境より有利な条件が人間にあるはずがない。しかし、ここに大きな違いが一つある。それは、人間の知識がふえたということである。

The fall has not injured all
of Adam’s children alike.

CainAbel2.jpg (3641 bytes)

     私達すべてが受けることになるさばきの時には、善の経験と、それに対照的な悪の経験が各自の経験として積まれているのである。それが私達には有利な条件になる。だから第二のさばきは、第一のさばきとは大いに異なる。

   神の知恵と愛はすべての人のためのあがないを与え、そのために、すべての人たちに、あらたなさばきを受けるように祝福されたのである。だからこの第二のさばきにまさる有利なさばきとか、有利なおきてとか、有利な条件とか境遇を願って、もう一度のあがないを、そして、もう一度のさばきを千年期以後に求める理由は、どう考えてもあり得ない。

Very few enjoy
the benefits of the ransom now,
but eventually
all will.

 

 

 

Bible28JulieUp.jpg (3185 bytes)

 

     私達のためにあがないがなされたということ、罪がゆるされるということは、全然別の問題なのである。あがないの意味は、罪人をきよめて聖人の域に高め、永遠の恵みに導くということではない。

   あがないというのは、あがなわれる罪人を、アダムの第一の刑罰とそれに伴う直接、間接の結果から釈放して、新しい生命を得るようにさばきの前に立たしめるということである。そのさばきで永遠の命を得るか否かは、その罪人の自由意志によって、神に対する従順を選ぶか、反逆を選ぶかによるのである。

そして、多くの人たちの陥りやすい考え方ではあるけれども、文明の世に住み、聖書を読み、聖書を持つことが、即ち、生命のさばきを受ける機会に恵まれるというふうに判断してはいけない、そもそもアダムの堕落のために、その子孫である私達すべてに同様な禍いを与えたのではないということを記憶していなければならない。

   ある人たちは、この世の神であるサタンに、たやすく惑わされ、周囲の罪悪に絶えず誘惑される薄弱で零落した性質の持ち主なのである。そして私達はみな多かれ少なかれ、この影響をこうむっている。だから、私達は善をなそうと思っても、周囲の事情のために、いつも悪が狙っており、しかも悪の方が強力なので、欲しない悪は、大概の場合、さけることが出来なくなりがちなのである。
     キリストのあがないを信じ、キリストの未来の導きに身をまかせる者を、キリストは自由な身にしてくれるのである。しかし、この自由を十分に、そして実験的に理解しうる人はきわめて少数である。

   しかし、この少数者――教会――だけが、神と共にこの世の祝福のために働く特別な目的のために、他のひとたちより先に召されてさばきを受けて、現在は承認の役をなしており、さばきの時には、この世を支配し、祝福し、そしてさばくようになるのである。この少数者だけが、いく分でもキリストのあがないの恵みを楽しみ、そして今、その生命のさばきを受けている。

   この少数者には、来たるべき時に人間に与えられる回復のあらゆる恵みが与えられているのである。(彼らは信仰によってこれを受ける)これらの少数者は、完全であるとは言えない。また、実際に、アダムと同じ状態に回復されたとは言えない。

The trials
of the Church
and of the world are different.

 


Arena.jpg (3015 bytes)

     しかし、その差はあっても、十分に補われ、高められ、認められるのである。彼らはキリストを信じる信仰を通じてこそ、完全なものと認められ、もはや罪人ではない完全な状態と、神のお考えの通りの状態に回復されるのである。彼らも人間なので、彼らの持つ不完全性と、そしてさけることの出来ぬ短所とは、あがないによって十分に差し引かれたのである。それは彼ら自身の功績のためではなく、救い主の完全によっておおわれたのである。それ故に、教会のさばきは、キリストと共にあるという教会の公認された地位上、この世界が時満ちて受けるさばきと同様に公平なものである。さばきの時には、世界はことごとく真理を十分に理解するようになり、そしてひとりひとりが神の準備された条件を受け入れる時には、もはや罪人としてではなく、回復のあらゆる恵みが受けつがれる神の子として待遇されるのである。

将来のさばきにおいて世界が経験することと、現在さばかれている教会が経験することの間にある差異の一つは、世界においては、神に従順な人たちが心的肉体的欠陥を少しずつ除くことによって、ただちに回復の恩恵を受けはじめるのだが、福音期の教会は死に直面する最後まで、主の聖職に献身することによってのみ、死んだ後には、第一の復活とともにただちに完全を得るというところにある。

世界と教会の二つのさばきの間にみられるもうひとつの差異は、私達の世界の状況が、来たるべき時には、今よりもっと私達に有利な条件に変わることである。すなわち、その時には、社会・政府などが義をかばい、従順な信仰は報いられ、不信仰は罰せられるようになる。

   ところが、教会は今、この世の君主の影響のもとに、その周囲は義や信仰などを冷遇する、そんな条件のもとにさばきを受けているのである。しかし、先に述べた通り、永遠の命という賜物と、そしてそれに加えて、神の栄光と名誉を授けることによって教会には、その労を償うことになる訳である。

Extinction of life
is the penalty
of sin.

Doctor.jpg (3395 bytes)

 

Grave6AngelF.jpg (6021 bytes)

   アダムの死には疑問の余地がない。しかし、その死は、930年間を死ぬべき状態で過ごした後に到達した死である。だから彼の子孫もまた、生命の権利を得ずに、死ぬべき条件のもとに生まれ、そして、その先祖と同様に多少の年月を過ごした後に死ぬのである。

   しかし、私達の罪に対する刑罰は、死に至る状態の苦痛と苦難ではなく、死に至る最後の境地である死、すなわち生命の消滅、それ自体であることを記憶するべきである。それ以前の苦痛と苦難は、たまたま死に伴うものにすぎない。

   というのは、人によって少しばかりの苦痛を経た後か、あるいは、何らの苦痛もなく死に至るようになるからである。もう一つ記憶すべきことは、アダムが生命を捨てた時、永遠にその命を捨てたことになるという意味である。だからその子孫は、ひとりもその不義を、身をもってあがなうことができず、また、失われた遺産を取り戻すことも出来ないのである。というのは、人類はすべてすでに死んだか、あるいは、死につつある事を意味しているのである。

   そしてアダムの子孫は、死ぬ前にアダムの罪を償うことができなかったのだから、死んだ後に、すなわち、存在しない時には、勿論できないのである。罪に対する刑罰は、死んだ後に再び生命にもどる特権をもって一時的に死ぬような刑罰ではない。神がなされた刑罰の宣告には、罪をゆるす予告が全然含まれていない。(創世記217

   だから、回復は、神の自由意志による恩典の恵みなのである。そして、刑罰が与えられると同時に、いや、むしろ宣告がなされた時に、神の自由恩典は暗示されていたのである。だから、その自由恩典が実現される時、私達は神の愛を十分に身に感ずることになるであろう。

The promise is still sure –
all shall be blessed
in the times
of restitution.

Family3.jpg (4362 bytes)

    女の子孫が蛇の頭を踏み砕くべきであるとの神の宣告によって与えられた希望の光明がなかったなら、人類はおそらく絶望のどん底でさまよっていたことであろう。しかし、この約束のために、神が私達・人間の幸福をお願いになって、何らかの計画をなさっていることが暗示された。

   319

   それに、罪のために神の恩寵は取り消され、その代り、神の呪いが人類に与えられたけれども、祝福は、すなわち恩寵なので、未来の祝福の約束は、その呪いが解かれることを意味する。結局は、神の恩寵が私達に戻ってくることを含んでいたのである。

   神の約束は、また他の意味をも含んでいたと思われる。すなわち、神は人類を不びんに思い、ご自身の命令を変更して、罪人の罪を清めてくださるか、それとも、人間の罪を他のものに負わせることによって、人間の罪がつぐなわれるように、ある種のご計画をなされたかも知れないということである。

   神は、そのご計画が何であるかについて、アブラハムを惑わせなかった。神は、人々が様々ないけにえをそなえるので、人々を不びんに思い、怒りを和らげ、罪を許すようなことはないとはっきりお示しになった。そして、罪をぬぐうことが出来る唯一の道は、その罰に相当する十分にねうちのあるいけにえでもって、罪をぬぐい去ること、それだけであるとはっきりお示しになった。

   これに関しては、特にアブラハムには意味深くお示しになった。すなわち、神の約束が与えられ、あらゆる祝福を一身にあつめたアブラハムの子が、その祝福を世に示す前にいけにえになるということになったのである。そして、アブラハムは死者の中からイサクをとり戻したのだが、これは一つの比喩である。(ヘブル1119)、

Abraham’s son, Isaac,
typified
Christ Jesus.

Abraham7IsaacF.jpg (6139 bytes)
Abraham and Isaac

     その比喩において、多くの人の罪を背負い、それによってあがなわれた人たちが約束された祝福を受けるようにするために死んだ。まことの主であるキリスト・イエスの前提として、イサクがその役割を演じたのである。もしも、アブラハムが、主なる神は罪を許し清めてくださるだろうと考えたならば、神の変心を考えたことになり、神の与えた約束を十分に信じていなかったことになる。

   アブラハムは恐らく次のように理論を展開したのであろう。すなわち、神が一度変心するなら、もう一度変心しない理由はないではないかと、また、神が死の呪いに関して怒りを和らげたのなら、約束された恩寵と祝福に関しても変心しないと言えないではないかと。しかし、神は私達をそのように惑わすことはなさらない。

   神はその義と不変性の両方を私達が十分に納得し確信するようにされる。神は人間をあまりにも愛されたために神はその独り子をさえ惜しまず、私達すべてのために彼を(死に)渡された。それにもかかわらず、神は人間の罪を、そのままで清めてくださるようなことはなさらなかった。アダムが有罪宣告を受け取った時に、すでに、全人類はアダムの中にあった。

Jesus gave
a full satisfaction
for all men.
     そして、アダムによって全人類が生命を失ったのと同様に、イエスがすべての人のあがないのために自らをすてた。時に、その死は、彼の腰の中にあった。まだ生まれていない人類を救う可能性を含んでいたのである。このようにして、すべての人を救うのに十分な、満足するほどの代金を払って、私達を正義の手にゆだねたのである。

   そして、来たるべき時になったら、その義が働くようになるであろう。そして、すべての人を買ったイエスは、彼によって神に近づくすべての人に回復を与える全権を握っているのである。

ScalesA.jpg (14998 bytes)

 

 

 

 

 

Jesus6A.jpg (5209 bytes)

ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。(ローマ51819)。

   この論旨は明瞭である。すなわち、アダムの罪によって死を与えられたすべての人たちは、彼らのために死に、犯された律法によってアダムの身代りとなった。主イエスにより与えられた生命の特権を持つことになるということである。

   このようにキリストはすべての人のあがないとしてご自身を献げられたのである。そのためにキリストは死んだのである。キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。(ペテロ318

   51819)の内容を考える時に、この要件を見のがした。

   パウロが言おうとする内容は、アダムのすべての子孫たちに有罪宣告が及ぼされたのと同様に、主イエス・キリストが私達の代りに犠牲になって、神のご計画に従順であったために、ただでくださる神の恩恵が私達すべてに及ぼされているということである。

   ただでくださる恩恵とは、それを私達が受け入れる時、永遠の命の基礎が築かれるので、赦罪の恩恵が正当化されるということである。というのは、ひとりの不従順によって多くの人たちが罪人に「なった」のと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人と(「された」のではなく)「されるであろう」という意味なのです。

   あがないそのものが、それを私達が受け容れないにもかかわらず義人として認めるならば、その聖句は、ひとりの従順によって多くの人が義人と「された」と読まれてよいわけである。

Our penalty
is paid for us through Christ.


Jesus37Resur.jpg (4278 bytes)
"He is risen."

     しかし、私達の救主によって身のしろ金が払われたにもかかわらず、福音期間には少数のみが主の血を信じる信仰により義人と認められ、その罪がゆるされたのである。しかし、キリストの血は全人類の罪を救うだけの十分な、なだめの価値がある。だから、新しい契約のもとに、この理由によって、全人類は罪がゆるされ、キリストによってアダムの罪からほどかれることが可能であることが分る。神には不義がありえない。

   だからもし、私達が自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義から私達をきよめて下さる。ヨハネ19

   神がもし、十分な代価の払われる前に宣告された私達の刑罰を赦免なさるのであったら、それは神の不正である。同様に、自らのご計画にょって私達の罪のあがないが支払われるようになさっておきながら、神がもしも私達の回復を禁ずるならば、これもまた、神の不正であると考えられる。

   かつて人類に死刑を宣告なさったその絶対的な公儀は、今自分の罪を告白しキリストによって生命を得ようと申し込む人たちの解放を保証なさる公儀でもある。

だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが右に座し、また私達のためにとりなして下さるのである。(ローマ83334

 

Sheep6F.jpg (3510 bytes)

 

Cross.jpg (14755 bytes)

     あがないの完全性は、ほしいものは価なしに受けなさいと言われたその恵みを受け入れるすべての人たちの回復を論ずる時に最も有力な論題である。(黙示録2217)公儀と名誉を重んじる神の品格自体が私達の回復を保証しているのである。しかも、神が要求された代表的な犠牲は、すべてがキリストの最も偉大な、そして十分な犠牲に集中されたのである。

   すなわち、見よ、世の罪を取り除く神の子羊このかたこそ私達の罪のためのあがない(満足の)供えものである。(ヨハネ129ヨハネ22)。死は罪に対する刑罰または代価なので、罪が消滅する時に、その代価もまた消滅しなければならない。

   この論以外の論は不合理であり、不正である。私達の主イエスが死んで2千年も経過したのにもかかわらず、なお、アダムの失点から挽回が完成されていないという事実が回復を否定する議論にはならないのである。

   それは4千年も経過した後にキリストが死んだという事実が、世界の創造以前に神のご計画がなされていない証拠であると主張する議論にならないのと同様である。キリストの死後2千年も、キリストの死前4千年も共に、神の事業のために与えられた時期なのである。すなわち、万物更新のための時期にそなえる準備期間なのである。

Some have been blinded in part, and some completely, by Satan.

 

Each for himself will have
a full chance
to prove,
by obedience
or disobedience, his worthiness
or unworthiness
of life everlasting.

     この論旨が、神に対する信仰と、罪の悔悟と、そして品性の改良とが、救いを受ける時に欠くべからざる要件であると教える聖書の内容と矛盾していると考えてはいけない。この点に関しては、これから詳細に論じるけれども、まず、少数者のみが完全な信仰と悔悟と改心をつくりだすのに十分な光明を持ち得たということだけをここでは言っておこう。

   この世の君であるサタンにくらまされて、私達のうちのある人たちは部分的に盲目になり、またある人たちは完全に盲目になっているのである。その人たちは、神に従順であるか、それとも不従順であるかによって、永遠の命を受ける価値の有無を自分の力で証明することができる十分な機会を与えられたのちに死と盲目の状態から回復されなければならない。

   そして生命を受ける価値がないものであることを証明した人たちは、再び死ぬのである。すなわち、第二の死をとげるので、それ以後は、もう救いはないのである。結局、それ以後には、復活はないということである。アダムのために私達がもらった死と、そのために伴うさまざまな不完全は、キリストの救いによって除かれるのである。

   しかし、私達、個人の自由意志によるキリストからの離脱の結果からくる死は究極的な死である。その罪はゆるされない。その罪の罰である第二の死は永遠の死であって、――永遠の死に至る過程ではなく永遠の死――その死は復活によって醒まされることのない死である。

Grave11.jpg (3814 bytes)

The redemption through Christ
is to be
as far-reaching as the sin of Adam.

     神の救いのご計画に関する哲学は続巻で論ぜられる。ここでは、アダムの罪によって私達がこうむった損傷と零落が無限大なのと同様に、キリスト・イエスの救いによって私達が得られる祝福の結果と機会もまた無限大であるという事実を論じる。

   すなわち、前者のために、罰せられ苦しんだすべての人たちが来たるべき時には、後者のためにあらゆる苦難から解放されるという事実である。しかし、死――存在の消滅――は罪の代価であるという聖書の教えを受け容れない人たちは、上に述べた聖書の論旨を理解できないであろう。

   死を苦痛(拷問)の中の生命であると考える人たちは、死と生の言葉が与える正反対の意味を無視しているだけでなく、二つの不合理におちいっている。先ず第一に、アダムの犯した罪がどんな種類のものであろうと、アダムの苦難が永遠に継続することを神が望んでおられるという考え方は不合理である。

   しかも、その罪が禁じられた果実を食べたというような些細な罪である場合は、とくにそうなのである。第二の不合理は、もし、主イエスが人類を救い、私達の代りに死なれ、私達のためのあがないとなられ、私達を死から解放させるために死んでいかれたならば、悪い人たちのためにこうむった彼の死は、すべての人たちが受けた死の宣告と、ちょうど一致するということが明らかになるのではないだろうか。

   果たして、イエスは私達のために永遠の苦しみを受けているのであろうか。イエスが永遠の苦しみを受けているのでないならば、イエスは私達の罪のために「死なれた」のが確かなのと同様に、私達の罪が受けることになっている罰は「死」である。どんな意味でも、またどんな状態でも「生」はあり得ない。

The doctrine
of eternal torture
is inconsistent
with the Scriptures and the understanding
of the Ransom.
     死を永遠の苦痛とみる理論は、主は私達すべてのものの不義を彼の上におかれたという教えと、キリストは私達のために死なれたという聖書の教えに矛盾していることが明らかである。そして二つのうち一つは間違っているので除かねばならないことも明らかである。

   不思議にも、一部の人たちは、永遠的苦痛の観念に執着し、それを選ぶのである。その人たちは、その観念を口にあうご馳走だと思って、あまりにも尊重しすぎて、聖書の一ページ毎に、これに関する真理が教えられて&