世々にわたる神の計画

第 9 章

 贖いと回復 

 

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――あがないによって保証された回復

――あがないによって与えられるのは永遠の命
           ではなく、永遠の命を得られるか否かがさ
           ばかれる機会であるということ

――さばきにおける人間の周囲の条件と有利な条件

――キリストの犠牲の要性

――ひとりの死によって、将来人類が救われ、
           過去に実際に救われたことがどうして可能
           なのであろうか

――しかし、今もなお、あがないを信ずる信仰と行
          為が必要である

――不信による罪の報いは決まっている

――あがないによって復活する幾億の人類が、
           この地上に住みうるか否か

――回復と進化の比較。

 

Restitution –
the logical result
of the ransom.
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     第8章までに述べた神ご自身の示された計画の概略によって、人類のためのご計画は、かつてエデンで失った人間の完全性と栄光の回復、または復古にあることが明らかになった。キリストのあがないの性質とその範囲が十分に理解されてはじめて、回復に関する最も強く決定的な証拠をみることができるのである。

   使徒と預言者によって預言されている回復が、あがないに続いて必ず来ることは、あたりまえの論理的結果である。神があがないを備えた時の考えの通りになれば、私達人類がこの偉大な救い主の力に頑固にさからわない限り、すべての人は最初の罰であるほろびのなわめすばわち死から救い出されるのが当然なのである。

   そうならなければ、あがないがすべての人に恵みを与えることにならないからである。

Christ gave himself
a ransom for all –
so that he
might bless all.

 

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     この問題に関するパウロの論理は最も明瞭でしかも要を得ている。パウロは言う、なぜなら、キリストは死者と生者との主(支配者・治者)となるために、死んで生き返られたからである。(ローマ149

   すなわち、私たちの主が死んで、また復活された目的は、生きている人たちを祝福し、支配し、そして原始の状態に復古させるためだけではなく、生きている人たちと死んだ人たち*とを完全に支配する権利を持ち、両方に同等な主のあがないの恵みを保証するためなのである。*

  *パウロの言ったことばには、もっと広い意味が含まれていることを認める必要がある。すなわち、死んだ人たちという言葉には、全人類が含まれているということである。神の目から見れば、死の宣告を受けた全人類は、既に死んでいるのと同然だと受けとられるのである。(マタイ822

してみると、生きている人たちというのは、人類では、まだ命が保証されている存なく在――天使たち――を指しているということになる。

     キリストはすべての人のために、ご自身をあがない(身のしろ金)としてささげられた。すべての人たちを祝福し、ひとりひとりに永遠の命を得る機会を与えるためである。しかし、すべての人たちのためのあがないを払ったと主張する一方、あがなわれた人たちの中から、ほんのわずかな人だけがその恵みを受けることができると主張するのは矛盾ではないだろうか。

   なぜなら、神は身のしろ金を受け取られた後に、救われた人たちの釈放を不当にも拒んだことになるか、或いは、神はすべての人たちの罪をゆるされたが、かねての寛大なご計画の実行ができなくなったか、それともそれを取り消したか、そのどれかであるはずだからである。神のご計画の不可変性は、神の義と愛の完全性と同様に絶対的なものである。

The ransom guarantees
every man
an opportunity
for life.

 

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Prior experience
with evil will be
a great advantage during the new trial.

     だから前に述べたような考え方は、それと矛盾するので、しりぞけるべきであり、すべての人のためのあがないが根本をなしている。かねての寛大なご計画は、神のお考えによる適当な時期に必ず実行されるという確信を持つべきである。

   そして、神は忠実な信徒たちに、アダムの受けた呪いが解かれる恩恵と、罪と呪い以前に神の子たちが授かった権利と自由の状態にかえる機会をお与えになるであろう。あがないの実際的恩恵とその結果を明らかに見ることができるようになって、はじめてあがないの普遍的適用性に対するあらゆる反対説が自然消滅されるのである。

   すなわち、人なるイエス・キリストによって与えられたすべての人たちのためのあがないは、誰にでも永遠の命の祝福を保証するのではなく、永遠の命を約束されるさばきを受けるもう一度の機会を保証している。

   人間の最初のさばきは、あらかじめ人間に与えられていた神の祝福を失う結果におちいったけれども、実は、それがかえって忠実な心の持ち主にとっては、祝福された経験になるのである。というのも、神が与えたあがないのためである。しかし、人間が最初の刑罰からあがなわれたという事実それ自体が、永遠の命を約束するさばきを受ける時、各自が必ずしも神に従順であることを保証してくれるのではない。

   又、神に従順でない人が永遠の命を許されることもない。人間は、罪とそのための苦しい刑罰を経験しているので、あらかじめ十分な警告を受けていることになる。それで、神が下さったあがないの結果、人間はキリストの主宰のもとにもう一度、個人的さばきを許される。

   というのは、キリストはご自身の命を捨て与える程、人間を愛したためであり、又、一人でも人間が死に去ることを望まず、みんなが神に立ちかえり生きることを望んでいるためである。だから自分の意志で反逆をする人たちだけが、二度目の裁きによる刑罰を受けることを私達は信じる。

   その刑罰は二度目の死を意味するので、あがないもなく、救われて釈放されるということもあり得ない。なぜなら、それ以上、もう一度のあがないも、もう一度のさばきも必要性が認められないからである。

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The Adamic trial -
"As in Adam
all die,
so in Christ shall
all be made alive."
I Corinthians 15:22

     私達すべては、そのさばきまでには、善悪の両方を十分に味わって経験することになるのである。又、誰もが神の善と愛を目撃し、経験することになるのである。そしてみんなが最も有利な条件のもとに、生命を約束される公正なさばきをひとりひとりが受けるわけである。

   それ以上は、私たちが要求することもできず、又、それ以上は与えられることもない。そのたった一度のさばきで義なる者と聖なる者を永久に決定するのである。千度のさばきでも、その人たちには同じ判決がくだされるはずである。

   又、そのさばきは不義なる者、不正なる者、不潔なる者をも決定するが、これも同様に、千度のさばきでも、その人たちには同じ判決がくだされるはずである。

The ransom
releases the sinner
from the first
condemnation.
     全く同じ周囲の条件のもとに、永遠の命を受けるもう一度のさばきを与える必要はない。さばかれる人たちの条件が、実際、変っていて、もっと有利であろうと思われるけれども、永遠の命を得る個人のさばきの条件は、昔のアダムのさばきの時と少しも変らないであろう。

   神のおきては昔も今も、又未来も同じく少しも変らないのである。罪を犯すものには死をさずけるということばは永遠に変らないであろう。そして周囲の条件に関する限り、エデンにおける条件と環境より有利な条件が人間にあるはずがない。しかし、ここに大きな違いが一つある。それは、人間の知識がふえたということである。

The fall has not injured all
of Adam’s children alike.

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     私達すべてが受けることになるさばきの時には、善の経験と、それに対照的な悪の経験が各自の経験として積まれているのである。それが私達には有利な条件になる。だから第二のさばきは、第一のさばきとは大いに異なる。

   神の知恵と愛はすべての人のためのあがないを与え、そのために、すべての人たちに、あらたなさばきを受けるように祝福されたのである。だからこの第二のさばきにまさる有利なさばきとか、有利なおきてとか、有利な条件とか境遇を願って、もう一度のあがないを、そして、もう一度のさばきを千年期以後に求める理由は、どう考えてもあり得ない。

Very few enjoy
the benefits of the ransom now,
but eventually
all will.

 

 

 

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     私達のためにあがないがなされたということ、罪がゆるされるということは、全然別の問題なのである。あがないの意味は、罪人をきよめて聖人の域に高め、永遠の恵みに導くということではない。

   あがないというのは、あがなわれる罪人を、アダムの第一の刑罰とそれに伴う直接、間接の結果から釈放して、新しい生命を得るようにさばきの前に立たしめるということである。そのさばきで永遠の命を得るか否かは、その罪人の自由意志によって、神に対する従順を選ぶか、反逆を選ぶかによるのである。

そして、多くの人たちの陥りやすい考え方ではあるけれども、文明の世に住み、聖書を読み、聖書を持つことが、即ち、生命のさばきを受ける機会に恵まれるというふうに判断してはいけない、そもそもアダムの堕落のために、その子孫である私達すべてに同様な禍いを与えたのではないということを記憶していなければならない。

   ある人たちは、この世の神であるサタンに、たやすく惑わされ、周囲の罪悪に絶えず誘惑される薄弱で零落した性質の持ち主なのである。そして私達はみな多かれ少なかれ、この影響をこうむっている。だから、私達は善をなそうと思っても、周囲の事情のために、いつも悪が狙っており、しかも悪の方が強力なので、欲しない悪は、大概の場合、さけることが出来なくなりがちなのである。
     キリストのあがないを信じ、キリストの未来の導きに身をまかせる者を、キリストは自由な身にしてくれるのである。しかし、この自由を十分に、そして実験的に理解しうる人はきわめて少数である。

   しかし、この少数者――教会――だけが、神と共にこの世の祝福のために働く特別な目的のために、他のひとたちより先に召されてさばきを受けて、現在は承認の役をなしており、さばきの時には、この世を支配し、祝福し、そしてさばくようになるのである。この少数者だけが、いく分でもキリストのあがないの恵みを楽しみ、そして今、その生命のさばきを受けている。

   この少数者には、来たるべき時に人間に与えられる回復のあらゆる恵みが与えられているのである。(彼らは信仰によってこれを受ける)これらの少数者は、完全であるとは言えない。また、実際に、アダムと同じ状態に回復されたとは言えない。

The trials
of the Church
and of the world are different.

 


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     しかし、その差はあっても、十分に補われ、高められ、認められるのである。彼らはキリストを信じる信仰を通じてこそ、完全なものと認められ、もはや罪人ではない完全な状態と、神のお考えの通りの状態に回復されるのである。彼らも人間なので、彼らの持つ不完全性と、そしてさけることの出来ぬ短所とは、あがないによって十分に差し引かれたのである。それは彼ら自身の功績のためではなく、救い主の完全によっておおわれたのである。それ故に、教会のさばきは、キリストと共にあるという教会の公認された地位上、この世界が時満ちて受けるさばきと同様に公平なものである。さばきの時には、世界はことごとく真理を十分に理解するようになり、そしてひとりひとりが神の準備された条件を受け入れる時には、もはや罪人としてではなく、回復のあらゆる恵みが受けつがれる神の子として待遇されるのである。

将来のさばきにおいて世界が経験することと、現在さばかれている教会が経験することの間にある差異の一つは、世界においては、神に従順な人たちが心的肉体的欠陥を少しずつ除くことによって、ただちに回復の恩恵を受けはじめるのだが、福音期の教会は死に直面する最後まで、主の聖職に献身することによってのみ、死んだ後には、第一の復活とともにただちに完全を得るというところにある。

世界と教会の二つのさばきの間にみられるもうひとつの差異は、私達の世界の状況が、来たるべき時には、今よりもっと私達に有利な条件に変わることである。すなわち、その時には、社会・政府などが義をかばい、従順な信仰は報いられ、不信仰は罰せられるようになる。

   ところが、教会は今、この世の君主の影響のもとに、その周囲は義や信仰などを冷遇する、そんな条件のもとにさばきを受けているのである。しかし、先に述べた通り、永遠の命という賜物と、そしてそれに加えて、神の栄光と名誉を授けることによって教会には、その労を償うことになる訳である。

Extinction of life
is the penalty
of sin.

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   アダムの死には疑問の余地がない。しかし、その死は、930年間を死ぬべき状態で過ごした後に到達した死である。だから彼の子孫もまた、生命の権利を得ずに、死ぬべき条件のもとに生まれ、そして、その先祖と同様に多少の年月を過ごした後に死ぬのである。

   しかし、私達の罪に対する刑罰は、死に至る状態の苦痛と苦難ではなく、死に至る最後の境地である死、すなわち生命の消滅、それ自体であることを記憶するべきである。それ以前の苦痛と苦難は、たまたま死に伴うものにすぎない。

   というのは、人によって少しばかりの苦痛を経た後か、あるいは、何らの苦痛もなく死に至るようになるからである。もう一つ記憶すべきことは、アダムが生命を捨てた時、永遠にその命を捨てたことになるという意味である。だからその子孫は、ひとりもその不義を、身をもってあがなうことができず、また、失われた遺産を取り戻すことも出来ないのである。というのは、人類はすべてすでに死んだか、あるいは、死につつある事を意味しているのである。

   そしてアダムの子孫は、死ぬ前にアダムの罪を償うことができなかったのだから、死んだ後に、すなわち、存在しない時には、勿論できないのである。罪に対する刑罰は、死んだ後に再び生命にもどる特権をもって一時的に死ぬような刑罰ではない。神がなされた刑罰の宣告には、罪をゆるす予告が全然含まれていない。(創世記217

   だから、回復は、神の自由意志による恩典の恵みなのである。そして、刑罰が与えられると同時に、いや、むしろ宣告がなされた時に、神の自由恩典は暗示されていたのである。だから、その自由恩典が実現される時、私達は神の愛を十分に身に感ずることになるであろう。

The promise is still sure –
all shall be blessed
in the times
of restitution.

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    女の子孫が蛇の頭を踏み砕くべきであるとの神の宣告によって与えられた希望の光明がなかったなら、人類はおそらく絶望のどん底でさまよっていたことであろう。しかし、この約束のために、神が私達・人間の幸福をお願いになって、何らかの計画をなさっていることが暗示された。

   319

   それに、罪のために神の恩寵は取り消され、その代り、神の呪いが人類に与えられたけれども、祝福は、すなわち恩寵なので、未来の祝福の約束は、その呪いが解かれることを意味する。結局は、神の恩寵が私達に戻ってくることを含んでいたのである。

   神の約束は、また他の意味をも含んでいたと思われる。すなわち、神は人類を不びんに思い、ご自身の命令を変更して、罪人の罪を清めてくださるか、それとも、人間の罪を他のものに負わせることによって、人間の罪がつぐなわれるように、ある種のご計画をなされたかも知れないということである。

   神は、そのご計画が何であるかについて、アブラハムを惑わせなかった。神は、人々が様々ないけにえをそなえるので、人々を不びんに思い、怒りを和らげ、罪を許すようなことはないとはっきりお示しになった。そして、罪をぬぐうことが出来る唯一の道は、その罰に相当する十分にねうちのあるいけにえでもって、罪をぬぐい去ること、それだけであるとはっきりお示しになった。

   これに関しては、特にアブラハムには意味深くお示しになった。すなわち、神の約束が与えられ、あらゆる祝福を一身にあつめたアブラハムの子が、その祝福を世に示す前にいけにえになるということになったのである。そして、アブラハムは死者の中からイサクをとり戻したのだが、これは一つの比喩である。(ヘブル1119)、

Abraham’s son, Isaac,
typified
Christ Jesus.

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Abraham and Isaac

     その比喩において、多くの人の罪を背負い、それによってあがなわれた人たちが約束された祝福を受けるようにするために死んだ。まことの主であるキリスト・イエスの前提として、イサクがその役割を演じたのである。もしも、アブラハムが、主なる神は罪を許し清めてくださるだろうと考えたならば、神の変心を考えたことになり、神の与えた約束を十分に信じていなかったことになる。

   アブラハムは恐らく次のように理論を展開したのであろう。すなわち、神が一度変心するなら、もう一度変心しない理由はないではないかと、また、神が死の呪いに関して怒りを和らげたのなら、約束された恩寵と祝福に関しても変心しないと言えないではないかと。しかし、神は私達をそのように惑わすことはなさらない。

   神はその義と不変性の両方を私達が十分に納得し確信するようにされる。神は人間をあまりにも愛されたために神はその独り子をさえ惜しまず、私達すべてのために彼を(死に)渡された。それにもかかわらず、神は人間の罪を、そのままで清めてくださるようなことはなさらなかった。アダムが有罪宣告を受け取った時に、すでに、全人類はアダムの中にあった。

Jesus gave
a full satisfaction
for all men.
     そして、アダムによって全人類が生命を失ったのと同様に、イエスがすべての人のあがないのために自らをすてた。時に、その死は、彼の腰の中にあった。まだ生まれていない人類を救う可能性を含んでいたのである。このようにして、すべての人を救うのに十分な、満足するほどの代金を払って、私達を正義の手にゆだねたのである。

   そして、来たるべき時になったら、その義が働くようになるであろう。そして、すべての人を買ったイエスは、彼によって神に近づくすべての人に回復を与える全権を握っているのである。

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ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。(ローマ51819)。

   この論旨は明瞭である。すなわち、アダムの罪によって死を与えられたすべての人たちは、彼らのために死に、犯された律法によってアダムの身代りとなった。主イエスにより与えられた生命の特権を持つことになるということである。

   このようにキリストはすべての人のあがないとしてご自身を献げられたのである。そのためにキリストは死んだのである。キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。(ペテロ318

   51819)の内容を考える時に、この要件を見のがした。

   パウロが言おうとする内容は、アダムのすべての子孫たちに有罪宣告が及ぼされたのと同様に、主イエス・キリストが私達の代りに犠牲になって、神のご計画に従順であったために、ただでくださる神の恩恵が私達すべてに及ぼされているということである。

   ただでくださる恩恵とは、それを私達が受け入れる時、永遠の命の基礎が築かれるので、赦罪の恩恵が正当化されるということである。というのは、ひとりの不従順によって多くの人たちが罪人に「なった」のと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人と(「された」のではなく)「されるであろう」という意味なのです。

   あがないそのものが、それを私達が受け容れないにもかかわらず義人として認めるならば、その聖句は、ひとりの従順によって多くの人が義人と「された」と読まれてよいわけである。

Our penalty
is paid for us through Christ.


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"He is risen."

     しかし、私達の救主によって身のしろ金が払われたにもかかわらず、福音期間には少数のみが主の血を信じる信仰により義人と認められ、その罪がゆるされたのである。しかし、キリストの血は全人類の罪を救うだけの十分な、なだめの価値がある。だから、新しい契約のもとに、この理由によって、全人類は罪がゆるされ、キリストによってアダムの罪からほどかれることが可能であることが分る。神には不義がありえない。

   だからもし、私達が自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義から私達をきよめて下さる。ヨハネ19

   神がもし、十分な代価の払われる前に宣告された私達の刑罰を赦免なさるのであったら、それは神の不正である。同様に、自らのご計画にょって私達の罪のあがないが支払われるようになさっておきながら、神がもしも私達の回復を禁ずるならば、これもまた、神の不正であると考えられる。

   かつて人類に死刑を宣告なさったその絶対的な公儀は、今自分の罪を告白しキリストによって生命を得ようと申し込む人たちの解放を保証なさる公儀でもある。

だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが右に座し、また私達のためにとりなして下さるのである。(ローマ83334

 

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     あがないの完全性は、ほしいものは価なしに受けなさいと言われたその恵みを受け入れるすべての人たちの回復を論ずる時に最も有力な論題である。(黙示録2217)公儀と名誉を重んじる神の品格自体が私達の回復を保証しているのである。しかも、神が要求された代表的な犠牲は、すべてがキリストの最も偉大な、そして十分な犠牲に集中されたのである。

   すなわち、見よ、世の罪を取り除く神の子羊このかたこそ私達の罪のためのあがない(満足の)供えものである。(ヨハネ129ヨハネ22)。死は罪に対する刑罰または代価なので、罪が消滅する時に、その代価もまた消滅しなければならない。

   この論以外の論は不合理であり、不正である。私達の主イエスが死んで2千年も経過したのにもかかわらず、なお、アダムの失点から挽回が完成されていないという事実が回復を否定する議論にはならないのである。

   それは4千年も経過した後にキリストが死んだという事実が、世界の創造以前に神のご計画がなされていない証拠であると主張する議論にならないのと同様である。キリストの死後2千年も、キリストの死前4千年も共に、神の事業のために与えられた時期なのである。すなわち、万物更新のための時期にそなえる準備期間なのである。

Some have been blinded in part, and some completely, by Satan.

 

Each for himself will have
a full chance
to prove,
by obedience
or disobedience, his worthiness
or unworthiness
of life everlasting.

     この論旨が、神に対する信仰と、罪の悔悟と、そして品性の改良とが、救いを受ける時に欠くべからざる要件であると教える聖書の内容と矛盾していると考えてはいけない。この点に関しては、これから詳細に論じるけれども、まず、少数者のみが完全な信仰と悔悟と改心をつくりだすのに十分な光明を持ち得たということだけをここでは言っておこう。

   この世の君であるサタンにくらまされて、私達のうちのある人たちは部分的に盲目になり、またある人たちは完全に盲目になっているのである。その人たちは、神に従順であるか、それとも不従順であるかによって、永遠の命を受ける価値の有無を自分の力で証明することができる十分な機会を与えられたのちに死と盲目の状態から回復されなければならない。

   そして生命を受ける価値がないものであることを証明した人たちは、再び死ぬのである。すなわち、第二の死をとげるので、それ以後は、もう救いはないのである。結局、それ以後には、復活はないということである。アダムのために私達がもらった死と、そのために伴うさまざまな不完全は、キリストの救いによって除かれるのである。

   しかし、私達、個人の自由意志によるキリストからの離脱の結果からくる死は究極的な死である。その罪はゆるされない。その罪の罰である第二の死は永遠の死であって、――永遠の死に至る過程ではなく永遠の死――その死は復活によって醒まされることのない死である。

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The redemption through Christ
is to be
as far-reaching as the sin of Adam.

     神の救いのご計画に関する哲学は続巻で論ぜられる。ここでは、アダムの罪によって私達がこうむった損傷と零落が無限大なのと同様に、キリスト・イエスの救いによって私達が得られる祝福の結果と機会もまた無限大であるという事実を論じる。

   すなわち、前者のために、罰せられ苦しんだすべての人たちが来たるべき時には、後者のためにあらゆる苦難から解放されるという事実である。しかし、死――存在の消滅――は罪の代価であるという聖書の教えを受け容れない人たちは、上に述べた聖書の論旨を理解できないであろう。

   死を苦痛(拷問)の中の生命であると考える人たちは、死と生の言葉が与える正反対の意味を無視しているだけでなく、二つの不合理におちいっている。先ず第一に、アダムの犯した罪がどんな種類のものであろうと、アダムの苦難が永遠に継続することを神が望んでおられるという考え方は不合理である。

   しかも、その罪が禁じられた果実を食べたというような些細な罪である場合は、とくにそうなのである。第二の不合理は、もし、主イエスが人類を救い、私達の代りに死なれ、私達のためのあがないとなられ、私達を死から解放させるために死んでいかれたならば、悪い人たちのためにこうむった彼の死は、すべての人たちが受けた死の宣告と、ちょうど一致するということが明らかになるのではないだろうか。

   果たして、イエスは私達のために永遠の苦しみを受けているのであろうか。イエスが永遠の苦しみを受けているのでないならば、イエスは私達の罪のために「死なれた」のが確かなのと同様に、私達の罪が受けることになっている罰は「死」である。どんな意味でも、またどんな状態でも「生」はあり得ない。

The doctrine
of eternal torture
is inconsistent
with the Scriptures and the understanding
of the Ransom.
     死を永遠の苦痛とみる理論は、主は私達すべてのものの不義を彼の上におかれたという教えと、キリストは私達のために死なれたという聖書の教えに矛盾していることが明らかである。そして二つのうち一つは間違っているので除かねばならないことも明らかである。

   不思議にも、一部の人たちは、永遠的苦痛の観念に執着し、それを選ぶのである。その人たちは、その観念を口にあうご馳走だと思って、あまりにも尊重しすぎて、聖書の一ページ毎に、これに関する真理が教えられているにもかかわらず、その教えを無視し、イエスが全世界のための身のしろ金を払ったという事実を自分の意志で否定するのである。

 

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回復は果たして実行できるのか?

ある人たちは次のように考えるであろう。もし何十億の死んだ人たちが復活する場合、この地上にその人たちを収容する余地がどこにあるというのか。

   かりに余地はあるにせよ、そんなに多くの人口を養う食物がないではないか。またある人たちは、地球は一つの共同墓地みたいなものだから、死んだ人たちがすべてよみがえるならば、人々は住む場所がないので、お互いに踏みにじりあうことになるだろうとも主張するであろう。これは重要な問題である。

   聖書は、すべての人の復活を公言しているにもかかわらず、実際には、その人たちの住む余地がないということになれば、何と奇怪な現象になるであろう。しかし、計算してみよう。そうすれば、その理論はひとつの根の無い憂いにすぎないことがわかる。

   なぜなら、神がすべての聖なる預言者の口を通して私達に語られた。ように、この地上には、すべての人たちの回復を受け入れる十分な余地があることが分かるからである。

If all the dead
were resurrected, would there be enough room
on the earth?

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     まず、神が人間を創造されて6千年たったとして、今、この地上に14億の人口が住んでいると仮定しよう。人類の始まりは二人だったけれど、大ざっぱに計算して、仮に当時の人口も現在と同じであったことにしよう。そして、実際には大洪水のために、ある時は、世界の人口が8人に減った時もあったけれど、世界の人口が現在の人口以下に減ったことはないというふうに考えよう。

   また、大ざっぱに計算して1世紀を3代として1代を33年にしてみよう。もちろん、創世記5章によれば、アダムよりノアの大洪水の時に至るまでの1650年の期間に11代があったのみなので、1代がおよそ150年の割合になるのであるけれども。

   こういうぐあいに計算してみると、6千年は60世紀だから、1世紀を3代として、アダムより今日まで180代をくだったという計算になる。そして大ざっぱな計算法によって1代を14億とすると、アダムより現在に至るまでの総数は、ざっと2520億になる。この数は勿論、実際の数の2倍以上である。

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     このものすごい数の人間を一体どこに収容するというのであろうか。それでは、土地の面積を調べてみよう。アメリカのテキサス州の面積は237,000平方マイルである。1平方マイルは27,878,400平方フィートだから、テキサス州は6,607,180,800,000平方フィートになる。

   10平方フィートとすれば、この計算法によると、テキサス州は共同墓地として6,607,180,800,000の死体、すなわち、私達が大ざっぱに計算してみた地球創造以来この地上に今まで存在した全人類の数のおよそ3倍に該当する死体を収容し葬ることが出来る。

EarthGrn1F.jpg (3805 bytes)      人間ひとりが立った姿勢で占める面積はおよそ1.66平方フィートである。この比例で計算すると、現在の総人口(14億)は86平方マイル内――ロンドン市またはフィラデルフィア市よりも狭い面積――に立っていられるというわけである。

   32,000平方マイル)だけで、私達の大ざっぱな計算によると、この地上に今まで生存した総数の2倍以上の人たちが立っていられる面積になる。

 

MapWorld.jpg (11411 bytes)

Liberal Population Estimate

If everyone who ever lived
were put in the U.S.A. ...
     "X" acres/person
     "X" sq. miles/person
     "X" sq. ft/person

MapUS.jpg (11765 bytes)


6,000 years since creation =   60 centuries

     33 years/generation
=     3 generations/century

     60 centuries
x     3 generations
= 180 generations
          since creation

wpe107.jpg (9384 bytes)

SQUARE FEET IN TEXAS

27,878,400 sqft per mile

x 237,000 sq. miles in Texas

= 6,607,180,800,000 sq. ft.
    in Texas


1,400,000,000 people
           on the earth now
x  180 generations
=  252,000,000,000
           total people that
           ever lived
           on the earth

MapTX2.jpg (15446 bytes)

IF TEXAS WERE A CEMETERY

    Using 10 sq. ft. for each
    person in a cemetery:

     6,607,180,800,000 sq. ft.
     in the state of Texas
    divided by 10
= 660,718,080,000
    people in a cemetery


Nearly 3 times the exaggerated total people that ever lived
could have 10 sq. ft standing room  in Texas!

 

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     こういうふうに計算してみると、先に述べた反対論を解決するのは、少しもむずかしいことではない。イザヤの預言(3516)に書かれている言葉、すなわち、荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜びサフランのように盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌い、荒野に水がわき出し、荒地に川が流れる、という言葉を思い出す時、神はご自身の計画に関するすべての必要をあらかじめ知っておられ、きわめて自然に人類の要求をみたすのに十分な準備をなされることを私達は知るのである。
Was primeval man lacking
in intelligence?

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回復の進化と比較

 人類がその始めの状態に回復することに関する聖書の証言は、科学と哲学にぴったり一致しないとの反対論を唱える人たちがいる。この論は、それ相応の明らかな理由を示し、20世紀のすぐれた知識を指して主張するのである。

   そして、彼らはその説をおし進めるために、原始人は現代人に比べて知識の面において非常に薄弱であったに違いないということを結論的証拠として主張し、又、知識は進歩の産物であると主張するのである。この見地よりみると、原始の状態に回復することは、少しも望ましいことではなく、むしろ、たしかに祝福とは正反対ではないかと考えられるであろう。

Did Adam
fall upward?
     この理論は一見もっともらしく聞こえるので多くの人たちが早合点して同調し、この理論を真理として受け容れる傾向があるようである。そんな人たちと論を同じくしているある有名なブルックリンの説教師の言っていることに耳を傾けてみよう。すなわち、アダムの堕落は下落ではなく上昇だというのである。
Evolution2.jpg (14559 bytes)      だから私たちはアダムの原点から早く離れれば離れるほど、私たちの利益も大きいのだと言っているのである。こういうふうに哲学だけでなく説教までが、神のみことばを無意味なものにしてしまう。

   そして、人類の最初の人の不従順によって、死とあらゆるわざわいが世界に入り、ひとりのあがないによってのみ、死とわざわいがほどかれ、神の恵みのいのちが私達に再びさずけられる。(ローマ5101217192181922、使徒行伝31921、黙示録2135

   と公言した聖徒たちを愚者扱いにすることによって、私達を説得しようとするのである。しかし、この哲学にあやまりがないものと誤算して直ぐに結論をだしてはいけない。もし、そのために、罪と死の根源に関する使徒たちの教理を捨てなければならないのなら、私達はあらゆる問題に関する使徒たちの証言を、神の啓示とは全く関係のないものだと拒絶しなければならないのである。

   その結果、使徒たちの証言は、なんの重みも権威もないのだということにならなければならない。だから、日毎に人気のつのるこの説を分析し、事実を基礎にその哲理の深さを簡単に調べる必要がある。

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     この理論の主唱者のうちの代表的な人が次のようなことを言っている。すなわち、人間の最初の存在期には動物性が最も支配的であり、純粋な物質的なものがほとんど人間を支配していた。それから一段ずつゆっくりと進歩して今日に至り、今は、普通の人間ならみな脳の支配下におかれるようになったと言われる状態に達したのである。

   脳の力は今日の偉大な事業をおし進めている。脳の力は一国の政府を動かしている。そして地上のあらゆる元素である空気、水などが脳の力に征服されつつある。

   人間はすべての物質力に手をかけ、少しずつながら、しっかりと自然を征御し、局面は、アレクサンダ・セルカークの言葉を借りると「私は私が手がけて調査するすべてのものの君主である」と公言できる程、地上のすべての征服を確認するようになるのである。

Scientific research is not
infallible.
     一つの理論が外見上もっともらしく見えるからと言って、私達がすぐにそれを受け容れ、そしてそのために聖書の内容をまげて、その理論に調和させようとするようなことになってはいけない。今までに私達は、いろいろな方法で聖書を説明して来た。

   その結果、聖書には超人的知恵が含まれており、その内容に誤りが存在しないという事実に疑いの余地のないことを私達は知っている。また、科学的な研究は、大いに奨励されるべきであり、その言葉には耳を傾けるべきであるけれども、その結論に絶対あやまりがないとは言えないということを私達は忘れてはいけない。

   むしろ、科学の理論に誤りがあったことは千度も証明されて来たので、それに関しては疑いの余地がない。しかも真の科学者とは、逆境に処し、殆ど征服不能な難事と苦闘しながら、自然の大教科書から人間と人間の住みかである歴史と運命について学ぼうと努力する一研究者にすぎないということを忘れてはいけないのである。

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Geneva Bible

     私達は、科学の研究を反対したり、妨害したりすることはしない。ただ、自然の大教科書の研究者である科学者の言葉を聞く時には、そのことばの一部、或いは全部が誤りであったことが度々あったことを肝に銘じておかなくてはならない。更に私達は綿密に彼らの論理を神の啓示の大教科書と比較してみる必要がある。

   そして、科学者のいうことの是非を証明する時には、教えとあかしに尋ねなければならない。もしこのことばに従って語らなければ、そのひとには夜明けがない。(イザヤ820)にたよらなければならない。この両方の大教科書を正確に知る時に、この二つが互いに調和していることが証明される。

   しかし、私達はその知識の最高域に達するまでは神の啓示の大教科書の方を優先すべきである。そして、それが神の子たちの標準になって、誤り易い兄弟である科学者の仮定的知識を審査するようにしなければならない。

The Brain Age learns from
past ages.

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     この原理を固守しながら、人間の増大した知識と技術と力に関して主張する進化論より、もっと合理的な回答は、他にないかを考えてみよう。進化論は先に述べたように、人間は元来、下等の状態から進歩して今日の優等な脳の力の時代に至ったという。

   私達は結局、発明と便益、一般教育と知識の広範な増大は、脳の力の増大のためではなく、むしろ、脳を使うのに最も適した周囲の環境のためではないだろうかという考えを抱くようになるであろう。

   私達は、今日の脳の力が昔のそれに比べて、もっと増大しているという考えを否定する。それよりも、今日の有利な周囲の環境のために人間の脳の力の使用は、以前のどの時期よりも一般化されたので、もっと広く認められるようになっている。絵画や彫刻の勉強をする今日頭脳時代の学生達が、昔の偉大な名家を師と仰ぐのは、どういうことであろうか。

   その学生達は、昔の大家の脳の力とデザインの斬新さと熟練を模倣して学ぶ価値のあることを認めているのではないだろうか。今日の頭脳時代の建築術は過去の斬新なデザインを参考にしているのではないだろうか。今日の頭脳時代の雄弁家や論理学者たちは、プラトー、アリストテレス、デモステネスその他の昔の大家たちの方法と論理を学んだり模倣したりしているのではないだろうか。

   今日の多くの演説家たちは、デモステネスやアポロスのような雄弁を羨ましく思っているのではないだろうか。又、何よりも、使徒パウロの明晰な論理を自分のものにしたいと思っているのではないだろうか。

Logic and law
of past ages
is the embodiment of marvelous wisdom.
     もっと古代にさかのぼって考えてみよう。昔の預言者たちの中の幾人かが示した修辞学的能力と、そして詩篇全般に散在しているその高尚な詩的絵画表現法を考えてみても、それからヨブの持っていた高尚な道義心は言うまでもなく、その知恵と論理もまた、今日の頭脳時代の哲学者たちの学びたいところであろう。

   そしてエジプトのすべての知恵を学んだモーゼについては、どうであろうか。モーゼを通して与えられた律法は、今日のすべての文明国の法律の基礎となっているので、モーゼは今もなお驚くべき手の権化として仰がれているのである。

Ancient manufacturing methods
defy duplication.
     埋没された古代都市の発掘で見せてくれる昔の美術と科学は、いわゆる頭脳時代の哲学者たちを唖然とさせる程の知識である。古代の死体香油保存法、銅の製造法、伸縮ガラスとダマスコの銅の製造法などは、現代の能力では、その有利な条件にもかかわらず、理解さえできず、また再製も出来ないという遠い昔のすぐれた業績である。

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The amazing
Great Pyramid

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     4千年をさかのぼって、およそアブラハムの時代までいくと、エジプトの大ピラミッドを見る。これは、今日の最も博学的な科学者をも驚愕せしめる対象である。その構造は今日の頭脳時代の数学と天文学の最高峰と全く一致している。その構造は現代の器具を使っても、その概略だけしかつかめないような奥深い真理を正確に教えてくれる。

   その教えは、きわめて明瞭なので、ある世界的に有名な天文学者は少しもためらわずに、それは神の創作にほかならないと言明した。

   頭脳時代の進化論者たちが、これを神のご計画によるものであると認め、その知恵は超人的であることを認めるにしても、なお、それは人間のなした構造であることをも認めねばならないであろう。しかも、遠い昔のある一団の人たちの知力によってなしとげられた神の仕事は、今日その原型を目の前に置き、そしてあらゆる科学的装置を使用してもなお、それをその通りに作ることができないというのは、どういうことであろうか。

   それは、確かに私達の頭脳時代が周囲の事実と環境によって保証されている範囲を逸脱してまでも、自負心を強調しすぎることを証明してくれるのである。

 

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  Pyramid Passages.

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Pyramid Scientific Features.

 


The mental capacity of today
is not greater than that of the past.

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     現代の知力が過去のそれより優れていないのみならず、ある面では、かえって劣っていることを今、明らかに証明したが、それでは私達の一般的知識の増大と近世のおびただしい発明などは、どう説明したらいいのであろうか。私達は合理的にこのことを聖書の教えと一致するよう証明できると信じる。

   私達にとって貴重なものであり、又、今日をして頭脳時代と呼ばしめる証拠の様々な発見と発明は事実上、きわめて最近のものである。すなわち、ほとんど全部の発明、発見が前世紀になされ、その中でも最も重要なものは最近60年の間になされたものである。

   例えば、蒸気と電気の応用など――電信、鉄道、蒸気汽船、そのほかすべての工業用機械などがそれである。これらの発明が増大された脳の力ならば、私達の頭脳時代は能力のほんの始まりに違いない。

   次世紀の日常的なものひとつひとつが私達には奇跡をみるような珍貴なものであることは論理的に当然な帰結である。そしてこの割合で脳の力が増大するなら、果たして脳の力はどこまで伸びてゆくのかを私達は予想することさえ出来ない。

Only a small number of men
are of great brain power or genius.

 

Discoveries
are often made
by "accident."

     しかし、もう一度考えなおしてもよう。すべての人が発明家であろうか。発明を実地に使用し、その便益を受ける人たちの数に比べると、まことに有益で、しかも実用的な発明をなした人の数は、実に少ないのではないだろうか。

   また、社会的にきわめて有用で、しかも尊重される部類の公僕たちの中に、すぐれた頭脳の所有者だと言われる人が果たして何人いるかを考える時、私達は少しも彼らを非難するつもりでいうのではない。世界的な脳の力の所有者、そして最も深遠な理論家と言われる人は、必ずしも機械の発明家ではない。

   しかも発明家の中にある人たちは、知的にもあまりに愚鈍なので、どうしてそのような発明をなしとげることが出来たのか疑わしい程である。電力、蒸気力などの大原理は、多くの人たちが長い年月の間、いく度となく応用し、改良し、総合してその結果明らかに、単純な偶然の一致で発見せられるのである。

   それは、偉大な脳の力を用いて発見されるのではなく、比較的に、むしろ副産物として、偶然発見されるのだと考えられるのである。

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Gutenberg Press

The invention
of printing
began the increase of knowledge.

 

Modern inventions indicate sharper perception and
increased education,
but NOT
increased
brain capacity.

     人間的な見地からすると、私達は近世の発明を次のように説明するであろう。すなわち、1440A.D.の印刷機の発明を出発点として説明できる。書籍の印刷とともに、思想家と観察者の思想と発見などの記録が世間に普及されたのである。

   この発明がなかったら、その思想と発見などが後世に伝わることが出来なかったであろう。書籍の出版を契機に、教育が一般にひろめられ、遂に普通教育となったのである。普通教育と大学の教育は人間の能力を増大させるのではなく、知力の使用を一般化させて、既に持っている能力を開発させる役割をするのである。

   知識が一般化し、書籍が普及するにつれて、これらの恵みが与えられている時代は、前代に比べて、決定的に有利な条件を持つことになる。というのは、様々な知識を提唱することによって、お互いに知識を磨き刺激する有能な思想家の数が今日、千あるとすれば、前代には1ある比で存在するからである。

   それのみならず、時代が変わるにつれて、後代の人たちは、書籍を通じて、当時代の経験に過去のあらゆる経験を重ねることが出来るという有利なの条件を持つからである。

   教育およびそれに伴う良い意味での野心と起業心、それから名誉と資産を一身に集めようとする欲望などの所有者である人間が、日刊新聞にのせられる発明の記録および説明を読むことによって、その知覚力を刺激し鋭敏に磨き、各自が出来る限り社会の利益と便益のために何かを発明、発見しょうとけんめいになるのである。

   したがって、純粋に人間的な見地からすると、近世の発明は、脳の力の増大のためではなく、きわめて自然的原因によって鋭敏に磨かれる知覚力のためであることを私達は主張する。

 

In the time of the end knowledge shall be increased.  Daniel 12:4

Education
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Communication
          Phone.jpg (2783 bytes)           Letter.jpg (2932 bytes)            wpe123.jpg (4782 bytes)             EMail.jpg (8025 bytes)  


Information Explosion
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Labor Saving Devices in the Home      
LtBulb.jpg (4465 bytes) Faucet.jpg (3021 bytes) AC.jpg (5392 bytes)  IKIron.jpg (13517 bytes) Micro.jpg (3363 bytes) SewMach.jpg (8778 bytes)  wpe11B.jpg (6446 bytes)  Stove.jpg (3654 bytes) wpe111.jpg (2781 bytes)


Transportation
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IKTransportation5.jpg (9328 bytes)IKTransportation6.jpg (16399 bytes)IKTransportation7.jpg (15052 bytes)IKTransportation9.jpg (19684 bytes)IKTransportation10.jpg (12936 bytes)
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Exploration
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"Many shall run
to and fro"

IKTransportation15.jpg (8533 bytes)

"Knowledge shall
be increased
"
IKSpace.jpg (14753 bytes)

"A time of trouble
such as never was"

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     さて、この問題に関して、聖書はどういうふうに教えているであろうか。私達は今、論じたとおり、人間の発明および知識の増大などを自然的な原因から来る結果であると信じる一方、これらの自然的原因はすべてがエホバの神によって遠い昔に計画され、規定され、適当な時期に実現されてきたこともまた信じるのである。なぜなら、神は御旨の欲するままにすべての事をなさる(エペソ111

     方で、あらかじめ定められた摂理に従って支配されるからである。神はそのみことばに啓示されているご計画に従って、6千年間を罪と堕落がこの世界に君臨し圧迫させることに、みこころを定められたのである。そして第7千年目には、万物をもとの状態に回復させ、悪を滅ぼすことに定められたのである。

   すなわち、神があらかじめ計画してお選びになったイエス・キリストによって、悪と悪の結果を破壊するように定められたのである。従って、その6千年間の悪の治世が終末に近づきつつあるので、神は来たるべき1千年期に私達人類を祝福し向上させるために、神の啓示の大教科書自然の大教科書の中に、そしてまた機械的化学的応用とその準備過程において必要な発見をしやすいように周囲の状況をとり計らって下さったのである。

   これらすべてが神のご計画の一部にほかならないということは預言者のことばに明らかに述べられている。すなわち、

ダニエルよ、あなたは終りの時まで、この言葉を秘し、この書を封じておきなさい。(そしたら)多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が(能力ではなく)増すでしょう。

悪い者は悪い事をおこない、ひとりも(神のご計画と道を)悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。(ダニエル121410

Mankind will have a full appreciation of the curse.      ある人たちにとっては、なぜ神は現代の発明や祝福をもっと早く人類に教えて、その呪いを除くようにとり計らって下さらなかったのだろうと、不思議に思われるであろう。

   しかし、人類に神の刑罰がどういうものかを十分に味わうようにして、しかも、時が満ちて神の祝福がすべての人に行き届く時に、罪の中の生活の不利を永久に悟らせようとなさるのが神のご計画であることを私達は私達は忘れてはならない。

   なお、神は世の人たちが、まだ悟っていないこともあらかじめ知り、予言されたのである。すなわち、神の最善の祝福も宇宙の義の律法に従わない人々の心には、かえってもっとひどい悪をかもす結果になるであろうということである。

   結局、今日の神の祝福が豊かに私達に与えられていること自体が、この問題に関する生きている教訓である。この教訓は、すべての永遠の存在なる天使たちにも、回復にあずかれる人間たちにも、神のご計画の大原理を立証する一例として示されるであろう。では、どういうふうに示されるのかについて述べてみよう。

Their selfishness now holds sway over all.


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The poor
are poorer.

     第一に、人類が堕落し、腐敗した現在の状態にあって、きびしい律法と刑罰もなく、また、律法と刑罰を施行しうる程の強力な統治もない状態にある限り、利己的傾向が全人類を支配することであろう。

   そして、先に論じたように人間の能力には個人的に差異があるため、労力を節約するように発明された機械は、その結果、機械製作にともなう様々な摩擦ののちに、富者をますます富ませ、貧者をますます貧しくさせるようになって行くのである。明白な傾向は、独占事業と私利私欲の増大する方向をたどることである。

   すなわち、自己の能力や自然的条件がそなわっている有利な位置にある人たちの手中に、もっとたくさんの利益がもたらされるように仕組まれるということである。

Idleness
is injurious.

 

"Day of Preparation"

 

   第二に、かりに現在の富と日毎に増える財産をことごとく平等に分けて、すべての階級の人に分配する律法をつくることが可能であるとしても、(勿論不可能なことであるが)人間は不完全だから、人間万事を主宰する超自然的な政府が存在しない限り、その結果は、現状よりももっと有害なものになるであろう。

   かりに、労力を節約する機械およびすべての近代的器具を平等に分配したとしよう。その結果は、遠からず、労働時間は大いに削減され、閑暇は大いに増加されることになるであろう。しかも、閑暇は堕落した人間にとって、最も有害なものである。

   勤労と、額に汗を流す必要とがなかったら、私達人類の零落は、今よりももっとひどく惨めで、もっと早くどん底に落ちたであろう。怠惰は悪の母である。そして精神的、肉体的零落が必ずそれにともなう。したがって、時が満ちて祝福される1千年期治世の準備段階として、私達にさずけてくださるその祝福を、今は神が控えて私達にくださらないのは、むしろ神の知恵と善意のためであると考えるのが当然なのである。

   神の国の超自然的政治のもとにおいては、すべての祝福が人類に公平に分配されるばかりでなく、その超自然的政治によって閑暇もまた徳を生み、精神的、道徳的、肉体的完全に向かって上昇するよう神はとり計らってくださるのである。今日の多様な発明および、その他の知識の増大の祝福は、この準備期間のために与えられたのである。

   しかも、あまりに自然的にもたらされるので、人々はそれを頭脳時代のもたらしたものだと自負するようになるのである。しかし、神はこれら聡明な哲学者たちの全く予期しえなかったことを作用させて、大きな問題をかもし出すように、とり計らったことは疑う余地もない。

   すなわち、これら祝福の増大自体が国が始まってからその時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時がすでに始まっていることを物語っているのである。

The increase
of knowledge
is producing
the predicted time of trouble.

 

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     すでに引用した預言者ダニエルのことばは、知識の増大と苦難の時を連結している。知識が苦難の原因になるのは、これを全く人類の腐敗のためなのである。知識の進歩によって、労力を節減するすぐれた機械と、さまざまな便益を世界にもたらしたばかりでなく、医術の進歩をもたらすことによって、数千の人々の生命の延長が実現されたのである。

   知識の進歩によって、人類は啓蒙され、人間の屠殺役である戦争を次第にうとんじるようになった。このためにもまた数千の生命が救われて、歴史上どの時期よりも増加率の早い世界人口の膨張に貢献している。しかも、人口の急速な膨張に反比例して労働力の必要度は減少していく。ここに今日の頭脳時代の哲学者たちの問題がある。

   すなわち、機械のために職をうばわれた人たちは不必要になったけれど、その人たちが必要とする生活用品の数量は、そのきりがない程大きいということである。そして、その部類に属する人たちの急速な増加をどう解決し、雇用と生活の保証をどうするのかという新しい問題にでくわしたのである。この問題は、彼ら哲学者の脳の力では到底解決できることではないことを究極的に認めるに至ったわけである。

Selfishness
and self-preservation.
     利権を一手に握っている富者は、あいかわらず、利己主義に支配されて、常識と公儀には盲目になるのである。それと同種類の利己主義が、こんどは、自衛の本能と権利の自覚と相結んで、貧者の対抗意識を燃やし、激励するようになったのである。そしてこれらの祝福は一時人類に悲惨な結果をもたらすであろう。――すなわち、人類が未だかつて経験したことのない実に悲惨な苦難の時が来るであろう。

   というのは、人間は腐敗した状態にあるから、神の指導と支配なしにはこれらの祝福を敵宣に利用することが出来ないからである。ほんとうに1千年期の治世の間に、神が回復された人間の心に神の律法を再び銘記し、それが完成するまでは、人類は禍害やその危険にさらされずに完全な自由の行使を自分の力でなしとげることが出来ないのである。

The day of trouble will end
in due time.
     来たるべき時には、苦難の時が終る。その時には、かつてガラリヤの怒涛に命令したその方が同じ権威をもって人間の感情の怒涛に平和であれ、おだやかであれと命令なさることであろう。平和の君が大権を帯びて立つ時には、偉大なる平和がもたらされるであろう。

   その時には、人間の中にあるすべての紛争の要素がエホバに油そそがれた者の大権を認め、主の栄光があらわれて、すべての肉は共にことごとくそれを目撃して拝み奉るでしょうそして、このように始められたキリストの治世には地のすべての家族が祝福をうけるであろう

Men will see God’s compassion and love.

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     その時になってはじめて、人類は、進化とか、自然的発展とか、頭脳時代の技術のためだとか思っていたことが、実は、神が人類を祝福なさるためにお定めになった準備の日エホバのいなずまが世界を照らした(詩篇7718)ことにすぎないということを悟るようになるであろう。

   しかし、今は、この真理を知るものは聖人たちだけであり、天国の知恵に目を向ける賢者たちだけが、これを悟りうるのである。なぜなら、主の親しみは主をおそれる者のためにあり、主はその契約を彼らに知らせられる。(詩篇2514)からである。

   しかし、私達が神に感謝するべきことは、神は一般知識をふやすと同時に、神の子らがエホバに関する知識を欠くことのないようにと計らってくださったことである。

   こうして、神のみことばとご計画を悟ることによって、はじめて、私達は神のみことばに矛盾する哲学者の空論と人間的な愚かな伝統を看破し、それを遠ざけることができるのである。

     人間の創造に関する聖書の説明は、次のようになっている。すなわち、神は地上におけるご自身のかたちに人間をつくり、完全なそして正しいものにつくられたこと。人は多くの理屈をさがし求めて自分自身をけがしたのだということ(創世記127、ローマ512、伝道の書729)。

   全人類が罪を犯したので、人類は自分自身を救うことが出来ず、また人は自分の兄弟をも買い戻すことができず、自分の身のしろ金を神に払うことができない。(詩篇49715)ということ。神はそのあわれみと愛によって、あがないのための準備をなされ、そしてそのご計画によって、神のみ子が人となって人のためにあがないを払ったということ。

   この犠牲に対する報いとして、更にしょく罪の大事業の完成のために、キリストは昇天して神性をおびるようになったこと。そして時が満ちれば、キリストは原始的完全と当時のすべての祝福とを人類に与えて人類の回復をもたらすということである。

   以上述べたことは、ことごとく聖書の始めから終りまで明らかに教えているのであって、この世の進化論とは正反対の立場をとっているのである。すなわち、不当にも科学と呼ばれる片言は、神のみことばとは正反対で、和解しえない矛盾の存在である。

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